主はマルコ8章31節以下で、御自分が多くの苦しみを受けた後、民の指導者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活すると定まっていると弟子たちに教えられ始めた。以前より「三日」及び「ヨナのしるし」という表現を主は用いられ、既にマタイ12章39節以下で、同じ事柄について暗示されていた。
【追記】
主イエスは、御自身の死と復活が、既に〔旧約〕聖書に預言されている、と仰せになる際に、
「ヨナのしるし」
という表現を用いられた。
ヨナ2章1節(1章17節)「ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた」。
ここで注意すべきは、
「海」(1章15節)
が死の世界の象徴として言及されているという点である。
主イエスは「多くの人の身代金として自分の命を献(ささ)げるために来た」(マタイ20章28節、マルコ10章45節)。そして、他人を悪く言ったり責任転嫁したりする生き方を戒められただけではなく、御受難の際に自らそれを実践なさった。安らかに生涯を終えていたなら教えは後世に残らなかった。
(注)別エントリー「試論:『贖(あがな)いの小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9650
(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:真理と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『贖(あがな)い』と聖母を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9672
(注)別エントリー「試論:『身代金(贖いの代価)』を140文字以内で」も参照のこと。
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主は「頬が打たれたら反対側の頬も向けよ。下着が取られたら上着も取らせよ」とお教えになったが御受難の際、主はこれを実行された。「言うだけで実行しない」(マタイ23章3節)と他者を批判した以上は、御受難は必然だった。十字架でなくベッドの上で死んでいたならば、教えは後世に残らなかった。