試論:「捨てる」「背負う」を140文字以内で

主イエスは、神の民の一員となるためにふさわしくない自分の諸々の欠点については、それを捨てなければならないが、それらの自分の欠点がもたらした過去の不始末や、現在に至る日々の厄介事や心配事については、逃げることなく向き合っていかなければならないと、十字架を背負うの表現で仰せになった。

【追記】

主イエスはマルコ8章34節で「自分を捨てる」ようにと教えられた。この意味をコロサイ3章9節以下でパウロは、「古い自分をその行いとともに脱ぎ捨て、造り主(=「言」である主イエス。ヨハネ1章3節)の姿に倣う新しい自分を身に着け、日々このようにして、新たにされる」ことであると説明した。

(注)別エントリー「試論:『自分を捨てる』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14466

主イエスはマルコ8章34節で、弟子となる者は自分の十字架を背負い、従って来るべきだと仰せになった。初代教会時代、新しく信者になろうとする人々がペトロに「あなたにとっての『自分の十字架』とは何ですか?」と訊ねたなら、恐らく「鶏が鳴く前に三度主を知らないと言ったこと」と答えただろう。

(注)別エントリー「試論:『自分の十字架』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14469