主イエスはルカ16章で「神と富の両方に仕えることはできない」(13節)と教えられた。具体的に、19節以下の「金持ちとラザロ」の話で憐れみの心を持たない者の末路を仰せになり、他方「不正な管理人」の話で「愛は罪を覆う」(一ペトロ4章8節)の意味及び「憐れみの道」の重要性を教えられた。
(注)別エントリー「試論:『不正な管理人』ザアカイを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12335
(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199
(注)別エントリー「試論:『憐れみの道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14859
(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296
(注)別エントリー「試論:『背を向けてはならない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15021
【追記】
主イエスはルカ16章の「不正な管理人」のたとえで、私欲のためでなく隣人のために富を費やすならば救いが訪れると仰せになり、後に徴税人ザアカイがその実例となった。19章8節「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。誰かから何かをだまし取っていたならそれを四倍にして返します」。
(注)別エントリー「試論:『神によって選ばれる者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14988
聖書の中で「犬」は、<良からぬもの>の比喩で用いられる(詩編22編17(16)節、マタイ7章6節、フィリピ3章2節等)。ルカ16章「金持ちとラザロ」の話に、できものをなめる犬が登場する。現代の日本人は犬の行為を慰めと捉えがちだが、古代のイスラエルでは恐らく「傷口に塩」を意味した。
一ペトロ4章8節は、箴言10章12節を踏まえて「愛は罪を覆う」と説く。この意味について、主イエスはルカ16章「不正な管理人のたとえ」で、ある人が常日頃から周囲に対して情け深く接するならば、神は必ずその人の以前の過ちに対しても情け深く接して下さる(マタイ6章14節)と御説明された。
(注)別エントリー「試論:憐れみのゆくえを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11623