試論:「互いを尊重した聖家族」を140文字以内で

幼子イエスにとってマリアはなんといっても産みの母親であり、またヨセフは実父ではないにせよ育ての父親であり家長だった。マリアにとってイエスは神でありヨセフは夫であり家長であった。ヨセフにとってイエスは神でありマリアはその母だった。「互いに相手を尊重しなさい」(ローマ12章10節)。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ルツ記とイエスの兄弟たちを140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

詩編15編3節は、神なる主と同じ住まいで暮らす人の条件として、周囲に対して中傷をせず、害を及ぼさず、小馬鹿にした態度を取らないことを挙げ、また2節では完全(=無垢)で、義を行うことを挙げる。主イエスの同居家族として、ヨセフが幼子や幼子の母を困らせる行動に出た可能性は皆無と言える。

人類がいかに文明の進歩を誇り、幼子や女性の権利の法的整備を誇ったとしても、実際には幼子や女性を対象とした虐待事件は後を絶たない。神は、「義人」(マタイ1章19節、25章37節)ヨセフの姿を通して、「神の義」(6章33節)とは幼子や女性を尊重し自分を後回しにすることだと教えられた。

(注)別エントリー「予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは」も参照のこと。
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(注)別エントリー「聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか」も参照のこと。
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ヨハネ12章25節は「この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命を得る」と主の仰せを記す。古代のヘブライ人は「〜を二の次にする」と言いたい時にも、「〜を憎む」という表現を用いた。主の養父ヨセフはヘロデが幼子の命を狙った時も、自分の命を二の次にして幼子と幼子の母を守り続けた。

(注)別エントリー「試論:最後の審判とディカイオスを140文字以内で」も参照のこと。
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カトリックではナザレの聖家族は三人と教える。主の養父ヨセフは終生、息子と妻の望むことだけを行い、三人家族の三番目であるかのように振舞い後世の人々からもそう思われた。世の男性たちが子供たちや女性たちを平然と虐待する、毒々しい時代が来る時、ヨセフの存在は強力な解毒剤として働くだろう。

(注)別エントリー「試論:『永遠の命を得るには?』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
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