あなた方は神と富に仕えることはできない

(以下、聖書の日本語訳はフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』によります)

◯申命記11章16節〜17節
「気をつけなさい。あなたたちの心が惑わされ心変わりし、ほかの神々に仕え、それを礼拝することのないように。さもなければ、主の怒りがあなたたちに向かって燃え上がり、主は天を閉ざされるであろう。それで、雨は降らず、地は実りをもたらさず、あなたたちは主が与えてくださる善い土地から速やかに滅び去るであろう」

◯ルカによる福音書16章13節
「どんな僕(しもべ)でも、二人の主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、または、一方に尽くし他方を軽んじるかである。あなた方は神と富に兼ね仕えることはできない」

ここで主イエス・キリストは、「富に仕えること」すなわち「ほかの神々に仕えること」であると、明らかに両者を同一視しておられる。その一方で、黙示録の17章と18章では「大淫婦」と呼ばれる都の「途方もない贅沢」(18章3節)に関して随所で語られている。黙示録18章の12節と13節で「商品」として語られている品々と、出エジプト記25章から31章に登場する品々との比較に注意。「肉桂」とはシナモン(出エジプト記30章23節)のことである。救い主である「花婿」キリストを拒みながら一方で神殿ばかり豪奢に飾り立てたところで、ただただ空虚な行ないであり、その姿が「大淫婦」にたとえられる所以である。後述のヤコブの手紙4章4節にも見られる通り旧新約聖書には「神への背信」を「姦通(姦淫)」と捉える思想が通底しており、「大淫婦」について考察する場合の鍵となっている。

◯ヨハネの黙示録17章1節〜2節、4節〜6節
「さあ、来なさい。大水の上に座っている大淫婦に対する裁きを見せよう。地上の王たちは、この女と姦淫を行い、地上に住む者たちは、この女の姦淫のぶどう酒に酔いしれた」
「女は紫と赤の衣をまとい、黄金と宝石と真珠で身を飾り、一方の手には、憎むべきものと、自らの姦淫の汚れに満ちた金の杯を持っていた。額には、秘められた意味を持つ名が書き記されていた。それは、『淫婦の母、地上のあらゆる憎むべきものの母である大バビロン』というものであった。わたしは、この女が、聖なる人々の血とイエスの証人たちの血に酔いしれているのを見た」

黙示録の「わたしは、この女が、聖なる人々の血とイエスの証人たちの血に酔いしれているのを見た」(17章6節)そして「預言者たちや聖なる人々の血、地上で殺されたすべての者の血が、この都で流されたからである」(18章24節)等の記述からは「大淫婦」「大バビロン」と比喩的に呼ばれるその都では、旧約時代でも新約時代でもそれらの両方の時代において、神から遣わされた人々が迫害され続けて来たということがうかがえる。それと同時に、4節の「黄金」「宝石」「真珠」「金の杯」などからは、「大淫婦」の「姦淫」が「富」への執着心とも強く関連していることが、暗示されている。

◯ヨハネの黙示録18章2節〜3節
「倒れた、倒れた、大バビロンが、そして、悪霊どもの棲処(すみか)、あらゆる汚(けが)れた霊の巣窟、あらゆる汚れた忌むべき鳥の巣窟になった。諸国の民は、怒りを招く姦淫のぶどう酒を飲み、地上の王たちは彼女と姦淫を行い、地上の商人たちは彼女の途方もない贅沢によって、富を得たからである」

◯ヨハネの黙示録18章11節〜17節
「地上の商人たちもまた、彼女のために泣き悲しむ。もはや、彼らの商品を買う者は誰もいないからである。商品とは、金と銀、宝石と真珠、亜麻布と紫の布、絹の布と真紅の布、いろいろな香木と象牙細工、高価な木材と銅や鉄や大理石などで造ったあらゆる器具、肉桂(にっけい)、香料、薫香(くんこう)、香油、乳香、ぶどう酒とオリーブ油、小麦粉と小麦、牛と羊、馬と車、奴隷と人の命。お前の欲しがる果物は、お前から逃げ去り、高価なもの、華やかなものはお前から消え去り、もはや、決してそれを見出せない。これらの商品で彼女から富を得ていた商人たちは、彼女の苦しみに恐れをなして遠くに立ち尽くし、泣き悲しんで、言う、『災いだ、災いだ、大きな都、亜麻布と紫の布と真紅の布をまとい、金と宝石と真珠で装っていた者よ、あれほどの富が、一瞬にして荒廃に帰したとは』」

◯イザヤ書10章3節
「刑罰の日、遠方から嵐がやって来るとき、お前たちはどうするつもりか。誰に助けを求めに行くのか。どこにお前たちの富を残すのか」

◯コロサイの人々への手紙3章5節
「貪欲は偶像崇拝と同じことです」

◯エフェソの人々への手紙5章5節
「すべてみだらなことを行う者、汚らわしいことを行う者、貪欲な者は偶像崇拝者であって、キリストと神が統治する国において約束されたものを相続する資格がないことを弁(わきま)えなさい」

◯ルカによる福音書12章15節
「あらゆる貪欲に気をつけ、用心しなさい。人の命は、財産の多さによるものではないからである」

◯ルカによる福音書12章34節

「あなた方の宝のある所に、あなた方の心もある」

◯詩編119(118)編36節〜37節
「わたしの心を利得にではなく、あなたの諭(さと)しに向けてください。わたしの目をむなしいものから背けさせ、あなたの道を歩ませて、命を与えてください」

◯ヨブ記31章24節〜28節
「もしも、わたしが黄金に望みを託し、純金に向かって『わたしの寄り頼むもの』と言ったことがあるなら、──もしも、わたしが財産の多いことを喜び、わたしの手が多くのものを得たことを喜んだなら──もしも、わたしが輝く太陽を見、照り映えて移りゆく月を見て、心ひそかに惑わされ、わたしの手が口づけを投げたことがあるなら、これこそ、裁き手によって罰せられるべき不義である。上におられる神を否(いな)むことになるからである」

◯申命記8章19節〜20節
「万一あなたが、あなたの神、主を忘れて、ほかの神々に従い、それに仕えて、礼拝するようなことがあれば、わたしは、今日(きょう)、あなたたちに警告する。あなたたちは必ず滅びるに違いない。主が、あなたたちの前から滅ぼされた国々のように、あなたたちも必ず滅びる。あなたの神、主の声に聞き従わないからである」

◯申命記28章47節~52節
「あなたがすべてに豊かであった時に、あなたの神、主に心からの喜びと楽しみをもって仕えようとしなかったので、あなたは飢え、渇き、裸で、すべてに欠乏し、主があなたに遣わされる敵に仕えるようになる。主はあなたに鉄の首枷をはめ、ついにはあなたを滅ぼされるであろう」
「主は遠く地の果てから、一つの国民を、禿鷲が飛びかかるように、あなたに向けられる。あなたにはその民の言葉が理解できない。その民は無慈悲で、老人を顧みず、幼い者を憐れまない。その民は、あなたの家畜が産むものや土地の実りを食い尽くし、ついにはあなたは滅ぼされるであろう。また、穀物も、新しいぶどう酒も、油も、群れの中の子牛も、群れの中の子羊も、あなたには何一つ残さず、ついにはあなたを滅ぼし去るであろう。その民は、あなたのすべての町であなたを攻め囲み、ついにはあなたが全土に築いて頼みとした高くて堅固な城壁を打ち倒すであろう。その民は、あなたの神、主があなたに与えてくださった全土の町のすべてを攻め囲む」

申命記28章49節「禿鷲」に対応する七十人訳のギリシア語は“ἀετός” – “aetos”であり、ヴルガタ訳のラテン語は”aquila”である。またマタイによる福音書24章28節(「死体のある所には禿鷹が集まる」)の「禿鷹」の場合も原文のギリシア語は “ἀετός” – “aetos”であり、ヴルガタ訳のラテン語は”aquila”である。ラテン語の”aquila”は、ローマ帝国の国章である「鷲」を指す言葉でもあった。したがって申命記28章49節とマタイ福音書24章28節とはともにローマ帝国に関する記述であるとも解釈できるが、この解釈だと申命記28章は、やがてユダヤを滅ぼすべく到来する国民とは「鷲」にたとえられる国民、すなわちローマ帝国の人々であると預言していることになる。その預言は紀元七〇年のエルサレム滅亡をもって成就した。

◯申命記31章16節〜18節
「主はモーセに仰せになった、『見よ、お前は、お前の先祖とともに眠りに就く。しかし、この民は、入っていく土地で出くわす異教の神々の後に従って姦淫を行い、わたしを捨て去り、わたしが民と結んだ契約を破るであろう。その日、わたしの怒りはこの民に対して燃え上がり、わたしは彼らを捨て去り、わたしの顔を隠す。この民は討ち滅ぼされ、多くの災いと苦難が襲うであろう。その日、民は『これらの災いがわたしを襲うのは、わたしのうちにわたしの神がおられないからではないか』と言う。確かに、その日、わたしは顔を隠す。民がほかの神々に向かうことで、あらゆる悪を行ったからである」

◯歴代誌下7章19節〜22節
「しかし、もしお前たちがわたしに背いて、お前たちの前に置いた掟と命令を捨て、ほかの神々のもとに行って仕え、礼拝するなら、わたしは与えた土地から彼らを抜き取る。またわたしの名のために聖別した神殿を、わたしの見えない所に投げ捨てる。そして、これをすべての民の間で物笑いの種、あざけりの的とする。またこの神殿は、そのそばを通り過ぎる者すべてにとってそびえていたが、荒れ果てる。人は『この土地とこの神殿に、主はどうしてこのようなことをされたのか』と問うであろう。すると人々は答えて言うであろう、『あの人たちは、エジプトの地から導き出した彼らの先祖の神、主を捨て、ほかの神々にすがって、礼拝し、これに仕えた。それ故、主はこのすべての災いを彼らの上に下されたのだ』」

◯エレミヤ書22章8節〜9節
「多くの国の民がこの町のそばを通るとき、『なぜ主はこの大きな町にこのようなことを行ったのか』と尋ね合い、『彼らは自分の神との契約を捨て、ほかの神々を礼拝し、これに仕えたからだ』と答えることだろう」

8節の「大きな町」の「町」は七十人訳のギリシア語では“πόλις – polis”、また「大きな」は七十人訳では“μέγας – megas”である。一方ヨハネの黙示録に登場する「大きな都」の「都」のギリシア語もまた“πόλις”であり、「大きな」は“μέγας”である。つまり、エレミヤ書22章8節の「大きな町」と黙示録の「大きな都」とは同じ都市を指している蓋然性が高いと考えられる。

◯詩編60(59)編5節
「あなたはご自分の民をつらい目に遭わせ、足をふらつかせる酒をわたしたちに飲ませられました」

◯ヨハネの黙示録16章19節、21節
「あの大きな都は三つに割れ、諸国の民の町々は倒壊した。神は大バビロンを思い起こされた。ご自分の激しい怒りのぶどう酒の杯(さかずき)を飲ませるためであった」
「そして、一タラントンほどの重さの大きな雹(ひょう)が天から人々の上に降ってきた。人々は雹の災いのために神を冒瀆した。この災いがあまりにもひどかったからである」

紀元七〇年のローマ帝国軍による攻略を迎え撃つエルサレム市内は、三派が割拠した武装勢力によって支配され、市民たちをも巻き込んで武装勢力同士による血みどろの抗争が展開されていた。一方で、ユダヤ人の住む他の諸都市はローマ軍によって次々に陥落させられていた。また「神は大バビロンを思い起こされた」以降の部分は、18章5節から8節においてより拡大された形で再現されている。紀元七〇年のエルサレム攻略戦において、難攻不落の要塞都市と化していたユダヤの都を攻めあぐねたローマ帝国軍は事態を打開するため、城壁の外から重さ一タラントン(約二十五キログラム)もの石弾をエルサレム市内に向けて発射する投石機を使用し、そして降り注ぐ石弾は都の人々に尋常ではない恐怖を与えた。知恵の書5章22節では投石機から発射される石弾が「雹(ひょう)」にたとえられていることに注意。

◯知恵の書5章17節、22節
「主は熱情を武具として身にまとい、敵に復讐するために被造物を武装させられる」
「投石機からは怒りに満ちた雹(ひょう)が投げ打たれ、海の水は彼らに対していきり立ち、川の水は容赦なく彼らに覆いかぶさる」

◯エゼキエル書7章19節
「銀は通りに捨てられ、金は汚(けが)れる。主の怒りの日、金銀は人を救えない。飢えを癒やさず、腹も満たさない。ほかでもない。金銀は罪へのつまずき」

◯箴言11章4節

「富は怒りの日には役に立たないが、正義は人を死から救い出す」

◯知恵の書5章8節
「われわれの高慢は何の役に立ったのか。富と驕りはわれわれに何をもたらしたのか」

◯レビ記26章27節〜33節
「それでもなお、お前たちがわたしに聞き従わず、わたしに逆らって歩むなら、わたしは怒りをもってお前たちに逆らって歩み、お前たちの罪の故にわたし自身お前たちを七倍重く懲らしめるであろう。お前たちは自分の息子の肉を食べ、また自分の娘の肉を食べるであろう。わたしはお前たちの高台を壊し、お前たちの香の台を打ち砕き、偶像の屍の上にお前たちの屍を捨て、わたしはお前たちを忌み嫌うであろう。わたしはお前たちの町々を廃墟にし、お前たちの聖所を荒らし、お前たちのささげる宥(なだ)めの香りを嗅がないであろう。わたしがこの地を荒らすので、そこに住むお前たちの敵はそれを見て唖然とするであろう。わたしはお前たちを諸国民の中にまき散らし、剣を抜いてお前たちの後を追うであろう。お前たちの土地は荒れ果て、お前たちの町々は廃墟となるであろう」

◯イザヤ書1章1節、4節、21節、28節
「アモツの子イザヤがユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世にユダとエルサレムについて受けた啓示」
「ああ、災いだ、罪を犯す国、咎(とが)の重い民、悪を行う者の子孫、堕落した者の子供たちは。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、離れ去った」
「忠実だった町が、どうして娼婦に成り下がってしまったのか。そこには公正が満ち、正義が宿っていたのに、今は人殺しばかりだ」
「背く者と罪人(つみびと)はともに砕かれ、主を捨てる者は消え去る」

◯エレミヤ書15章5節〜6節
「ああ、エルサレムよ、誰かお前を憐れむ者があろうか。誰かお前のために心を痛める者があろうか。誰かお前の所に悔やみを言うために立ち寄る者があろうか。お前はわたしを捨てた──主の言葉。お前は背信をやめない。それ故、わたしはお前の上に手を伸ばし、お前を滅ぼす。わたしは情けをかけるのに飽きた」

◯歴代誌下36章15節〜16節
「彼らの先祖の神、主は、使者たちを通じて彼らに警告し、何度となく警告された。ご自分の民と住まいを憐(あわ)れまれたからである。しかし、彼らは神の使者たちをあざけり、神の言葉をさげすみ、神の預言者たちを笑いものにした。そのために、主の怒りが民に対して燃え上がり、もはや容赦なかった」

◯マタイによる福音書22章2節~7節
「ある王が王子のために結婚の披露宴を催した。王は披露宴に招いた人々を迎えに、僕(しもべ)たちを遣わしたが、その人々は来ようとしなかった。そこで、王は、重ねてほかの僕(しもべ)たちを遣わして言わせた、『宴(うたげ)の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠(ほふ)って、すべての用意が整いました。さあ、披露宴においでください』。しかし、彼らはそれを無視して、ある者は畑に、ある者は商売に出かけ、ほかの者たちは王の僕(しもべ)たちを捕まえて辱め、殺してしまった。王は怒って、軍隊を差し向け、これらの人殺したちを滅ぼし、その町を焼き払ってしまった」

◯ヤコブの手紙4章4節
「神を捨てた人々よ、この世への愛着は、神の敵であることを知らないのですか。この世の友になりたいと願う者はみな、自分を神の敵とするのです」

フランシスコ会聖書研究所訳では「神を捨てた人々」と日本語訳されているが、バルバロ訳(講談社)では「姦通者」と訳されておりこちらの方がギリシア語本文からの直訳である。神への背信が姦通にたとえられており、神に背を向けた「大きな都」を「大淫婦」にたとえるのと通じる。

◯申命記11章26節〜28節
「見よ、わたしは今日(きょう)、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。今日、わたしがあなたたちに与えるあなたたちの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を受ける。しかしもし、あなたたちの神、主の命令に聞き従わず、今日わたしが命じる道からそれて、あなたたちが知らなかったほかの神々に従うなら、呪いを受ける」

◯マタイによる福音書6章24節
「誰も二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、または、一方に親しみ、他方を疎んじるかである。あなた方は神と富に仕えることはできない」

ローマ人の歴史家タキトゥスは、二世紀初めの著作“Historiae”の第5巻8節において、紀元七〇年の滅亡以前にエルサレム神殿が所有していた財産──つまり「富」に関して、“immensae”(計測不能な)というラテン語で表現している(タキトゥス『同時代史』國原吉之助訳(ちくま学芸文庫)388ページでは「莫大な」)。エルサレム神殿の「計測不能な」「莫大な」富の源泉は、ユダヤ本国のみならず世界各地に離散していたユダヤ人(使徒言行録2章5節〜11節参照)からも集められていた、神殿税(マタイ福音書17章24節および出エジプト記30章11節〜16節参照)つまり神殿への献金だったのである(タキトゥス前掲書第5巻5節)。

◯ヨハネによる福音書2章14節〜16節
「イエスは神殿の境内で、牛、羊、鳩を売る者や両替屋が座っているのをご覧になると、縄で鞭を作り、牛や羊をことごとく境内から追い出し、両替屋の金をまき散らし、その台を倒して、鳩を売る者たちに仰せになった、『これらの物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家にしてはならない』」

◯申命記8章12節〜14節、17節〜18節
「あなたが食べて満ち足り、立派な家を建てて住み、あなたの牛や羊の群れが殖え、金銀が増し、また、あなたのあらゆる持ち物が増すとき、あなたの心が驕り高ぶり、あなたの神、主を忘れないように気をつけなさい」
「あなたは心の中で、『わたしの力、わたしの手の働きでこの富を築き上げた』と言ってはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。主があなたの先祖に誓った契約を今日(こんにち)のように果たして、富を手に入れる力をあなたに与えてくださった」

◯ルカによる福音書21章5節~6節
「さて、ある人たちが、美しい石と奉納物で飾られた神殿について話し合っていたとき、イエスは仰せになった、『あなた方が目にしているこれらのものが破壊され、積み上げられた石が一つも残らない日が来る』」

◯ルカによる福音書19章28節、41節〜44節
「さて、イエスはこれらのことを語り終えると、先頭に立って、エルサレムへ上って行かれた」
「都に近づき、イエスは都をご覧になると、そのためにお泣きになって、仰せになった、『もしこの日、お前も平和をもたらす道が何であるかを知ってさえいたら……。しかし今は、それがお前の目には隠されている。いつか時が来て、敵が周囲に塁壁を築き、お前を取り囲んで、四方から押し迫る。そして、お前と、そこにいるお前の子らを打ち倒し、お前のうちに積み上げられた石を一つも残さないであろう。それは、訪れの時を、お前が知らなかったからである』」

◯ヨハネの黙示録18章19節
「災いだ、災いだ、大きな都よ、海に船を持つすべての者が、ここでその高価なものを商いして富を得ていたのに、一瞬にして荒廃に帰してしまうとは」

マカバイ記二12章9節には、地中海沿岸の港湾都市ヤムニアで港と船隊とに火が放たれる事件が起きた際、燃え上がる「炎の明かり」は二百四十スタディオン(約四十五キロメートル)も離れたエルサレムから見えるほどだった、と記されている。逆にエルサレムの都に火が放たれて町全体が炎上し、その滅亡の時を迎えた際には、燃え上がる「炎の明かり」は地中海沿岸の港湾都市からも当然ながら観察できたはずである。

◯ヨハネの黙示録18章21節
「大きな都バビロンは、このように激しく打ち倒されて、もはや決して見出されることはない」

◯エレミヤ書7章34節
「わたしは、ユダの町々とエルサレムの巷(ちまた)から、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声を絶やす。そうだ。この地は廃墟となる」

◯ヨハネの黙示録18章23節〜24節
「また、ともしびの光は、もはや、お前のうちには決して輝くことなく、花婿や花嫁の声も、もはや、お前のうちには決して聞かれることはない。なぜなら、お前の商人たちが地上の君主であり、お前の魔術によってすべての国民は欺かれ、預言者たちや聖なる人々の血、地上で殺されたすべての者の血が、この都で流されたからである」

黙示録における「地上」という表現の、「地」とは、20章でキリストの一千年間の統治が始まる以前は(つまり19章以前の記述においては)、ルカ福音書4章25節や同21章23節そしてローマ9章28節やヤコブ5章17節などの場合と同様、古い契約(旧約)における神の民の居住地(居住範囲、居住領域)すなわちユダヤ世界を指す(ダニエル書9章6節やバルク書1章9節も参照)。黙示録18章24節の「預言者たちや聖なる人々の血、地上で殺されたすべての者の血が、この都で流されたからである」の「この都で」と日本語訳されている箇所のギリシア語原文は「彼女において(εν αυτη – en autē)」という表現であるが、この場合の「〜において」は地理的な所在地というよりは、責任の所在(マタイ福音書23章35節〜37節やルカ福音書11章50節〜51節また黙示録16章6節などを参照)を意味している。

◯ルカによる福音書13章33節
「預言者がエルサレム以外の地で死ぬことはありえないからである」

黙示録18章24節とルカ福音書13章33節とを比較すると、「この都」に該当するのは「エルサレム」ということになる。また、黙示録18章23節に「花婿」「花嫁」という表現が登場するが、福音書ではしばしばキリストが「花婿」にたとえられ、キリストを待ち望む神の民は「花嫁」にたとえられている。莫大な富と繁栄に酔い痴(し)れて「花婿」であるキリストを拒絶した都のことを「大淫婦」と呼ぶ所以である。後掲のようにエゼキエル5章6節にはエルサレムについて、「しかしこの都は異国にもましてわたしの定めに逆らい、また周辺の国々にもましてわたしの掟に逆らった。わたしの定めを拒絶し、掟に従おうとはしなかった」という主なる神の仰せがある。

◯ルカによる福音書11章50節~51節
「この時代は、世の初めから流された、すべての預言者の血の責任を問われる。それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血に至るまで及ぶ。そうだ、あなた方に言っておく。この時代はその責任を問われる」

◯エゼキエル書5章5節~9節、14節~15節
「主なる神は仰せになる。これがエルサレムである。わたしはこの都を周辺の異国の民および諸国のただ中に置いた。しかしこの都は異国にもましてわたしの定めに逆らい、また周辺の国々にもましてわたしの掟に逆らった。わたしの定めを拒絶し、掟に従おうとはしなかった」
「それ故、主なる神は仰せになる。お前たちは周辺の異国の民以上に強情である。そのためわたしの掟に従わず、周辺の異国の民の定めほどにもわたしの定めを実践しなかった。主なる神は仰せになる。それ故、わたしはお前に制裁を加える。異国の民が注視する中、お前の間で裁きを下す。ありとあらゆる忌まわしい行為に対して、かつて行ったことがなく、またこれからも決して行わないことをお前に行う」
「通り過ぎ行くすべての者の目の前でお前を廃墟とし、周辺の異国の民のあざけりの的とする。怒りと憤り、激しい非難のうちにお前を裁くとき、お前は周辺の異国の民のあざけりの的、物笑い、また警告、恐れとなる。これを語ったのは主なるわたしである」

◯使徒言行録13章38節~41節
「ですから、兄弟のみなさん、知っていただきたいのです。このイエスによって罪の赦(ゆる)しが宣べ伝えられ、また、モーセの律法によっては義とされなかったあらゆることについても、信じる者はみな、この方によって義とされるのです。ですから、預言者たちの書で言われていることが、あなた方の上に起こらないように、警戒してください。『見よ、お前たち、侮(あなど)る者よ、驚け。滅び去れ。わたしはお前たちの時代に一つの業を行う。誰かがこれを、お前たちに説明しても、お前たちにはとうてい信じられないことを』」

◯マタイによる福音書23章35節~39節
「こうして、正しい人アベルの血から、あなた方が聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカリヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなた方の上に降りかかる。あなた方によく言っておく。これらのことはみな、今の時代に降りかかるであろう」
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ。雌鳥が翼の下に雛を集めるように、わたしはいく度、あなたの子らを集めようとしたことであろう。しかし、あなた方はそれに応じようとしなかった。見よ、あなた方の家は荒れ果てたまま、見捨てられる。わたしは言っておく。あなた方が、『主の名によって来られる方に祝福があるように』と言う時まで、あなた方は決してわたしを見ることがない」

◯マタイによる福音書24章1節~3節
「イエスが神殿の境内を出ていかれると、弟子たちが近寄ってきて、イエスに神殿の建物を指し示した。すると、イエスは仰せになった、『あなた方はこれらのすべてを見ているのか。あなた方によく言っておく。積み上げられた石が一つも残らないまでに、すべてが破壊される』」

◯ダニエル書9章26節
「次に来る指導者の民によって都と聖所は荒らされる。その終わりは洪水。戦いの終わりまで荒廃が定められている」

「次に来る指導者の民」はローマ帝国の国民であり、「都」をエルサレム、「聖所」をエルサレム神殿の聖所と考えると、まさにそれは紀元七〇年に起こった。「洪水」は怒濤の勢いでローマの大軍団が殺到して来る光景の比喩的表現であるのと同時に、その襲来によって全てが一掃され跡形もなくなってしまうことをも意味している。

◯マルコによる福音書13章1節~2節
「さて、イエスが神殿の境内を出られると、弟子の一人が言った、『先生、ご覧ください。何と素晴らしい石、何と素晴らしい建物でしょう』。すると、イエスは仰せになった、『あなたはこれらの壮大な建物を眺めているのか。積み上げられた石が一つも残らないまでに、すべては崩されるであろう』」

◯マタイによる福音書21章12節〜13節
「イエスは神殿の境内にお入りになった。そして境内で物を売り買いしている者たちをみな追い出し、両替人の机や、鳩を売っている者たちの腰掛けを倒された。そして、彼らに仰せになった、『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書き記されている。それなのに、あなた方はそれを強盗の巣にしている」

◯エレミヤ書7章2節〜3節、11節
「主の神殿の門に立ち、そこでこの言葉を告げよ。そして、言え。主を礼拝するために、これらの門を通っていくユダの人々よ、みな、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう仰せになる。お前たちの道と行いを改めよ」
「わたしの名によって呼ばれるこの家が、お前たちの目には盗賊の巣と見えるのか。見よ、わたしにもそう見える──主の言葉」

エレミヤ書7章では、11節で神殿(第一神殿)を「盗賊の巣」と呼んだ上で、次節以下で神殿の滅亡が預言されている。そして主イエス・キリストも、エルサレム入城の後、神殿(第二神殿)を「強盗の巣」と呼んだ上で(マタイ21章13節、マルコ11章13節、ルカ19章46節)神殿の滅亡を予告された(マタイ24章3節、マルコ13章2節、ルカ21章6節)。その予告は紀元七〇年に現実のものとなった。エレミヤ書7章12節に登場する「シロ」はかつて「会見の幕屋」すなわち神殿が建てられていた土地であった(ヨシュア記18章)。しかし、サムエル記上の最初の四つの章にある通り、当時イスラエルを裁き治めていた祭司エリの息子たちの悪行に感化されてイスラエルの民の間に悪がはびこり、やがてペリシテ人の侵攻を受けて壊滅的な打撃を蒙ることになった。主イエス・キリストの言葉には大祭司(祭司長)たちの一族の行いを告発するニュアンスも、当然ながら含まれている。

◯エレミヤ書7章12節〜15節
「シロにあるわたしの場所、かつてわたしの名をそこに住まわせた所に行き、わたしの民イスラエルの悪の故にわたしがそこに対して行ったことを見よ。さて、お前たちはこれらのことをすべて行い──主の言葉──、わたしがお前たちに語り、何度となく語ったのに聞かず、呼び掛けたのに応えなかった。それ故わたしは、わたしの名によって呼ばれ、お前たちが信頼しているこの神殿に、また、お前たちとお前たちの先祖に与えたこの所に、シロに対して行ったように行う。わたしはお前たちの兄弟、エフライムの子孫のすべてを放り出したように、お前たちをわたしの前から放り出す」

◯マルコによる福音書11章15節〜17節
「イエスは神殿の境内に入り、そこで売買をしている人々を追い出し始め、両替人の机や、鳩を売っている人たちの腰掛けを倒し、また誰にも境内を通って品物を運ぶことをお許しにならず、人々に教えて仰せになった、『わたしの家はすべての民族のための祈りの家と呼ばれる』と書き記されているではないか。ところが、あなた方はそれを強盗の巣にしてしまった」

◯ルカによる福音書19章45節〜46節
「それから、イエスは神殿の境内にお入りになり、商売をしていた人々を追い出し始め、彼らに仰せになった、『《わたしの家は祈りの家でなければならない》と書き記されている。それなのに、あなた方はそれを強盗の巣にしてしまった』」

◯ヨハネの黙示録19章1節~2節
「ハレルヤ、救いと栄光と力はわたしたちの神のもの。なぜなら、その裁きは真実で正しく、神は、地上を姦淫で堕落させたあの大淫婦を裁き、僕(しもべ)たちの血の復讐を彼女にされたからである」

◯ルカによる福音書21章20節~24節
「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいているのを悟りなさい。その時、ユダヤにいる人は山に逃げなさい。また、都にいる人はそこを立ち去り、地方にいる人は都に入ってはならない。それは、書き記されていることがすべて成就される、報復の時だからである。それらの日に、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸である。地上には深い苦悩が、この民の上には神の怒りが臨むからである。人々は剣の刃に倒れ、捕虜となって、あらゆる国に連れていかれる。そして、異邦人の期間が満たされるまで、エルサレムは異邦人に踏みにじられる」

ルカ福音書のこの箇所では、紀元七〇年のエルサレム滅亡について語られている。ルカ21章22節の「報復」はエゼキエル書16章38節の「(お前に)報いる」に対応し、「書き記されていることがすべて成就される、報復の時」という箇所が意味することは、(紀元七〇年の)エルサレム滅亡をもって旧約聖書の全ての預言が成就し旧約時代が完全に終わりを迎えるということである。逆に言えば、第二神殿とエルサレムの滅亡以降の歴史には、旧約聖書の預言書は、基本的に無関係である。そしてこの場合の「報復」は、黙示録19章2節の「神は、地上を姦淫で堕落させたあの大淫婦を裁き、僕(しもべ)たちの血の復讐を彼女にされたからである」とも対応している。このルカ21章21節において主イエス・キリストはエルサレムが包囲されようとしている時にはその都を脱出すべきであると警告され、地方にいる人々は山に逃げるべきでエルサレムがいかに堅固な都だろうと、そこに入って籠城すべきではないとも警告された。黙示録18章4節ではその警告が繰り返されている(「わたしの民よ、彼女から逃げ去れ。それは、その罪に与(くみ)せず、その災いに巻き込まれないためである」)。

◯ヨハネの黙示録18章4節〜8節
「わたしの民よ、彼女から逃げ去れ。それは、その罪に与(くみ)せず、その災いに巻き込まれないためである。彼女の罪は積もり積もって天にまで達し、神はその不正を心に留(とど)められた。彼女がお前たちに報いたとおりに、彼女にも報い返してやれ。彼女の仕業に応じて倍にして返してやれ。彼女が混ぜものを入れた杯に、その倍の量を混ぜて注いでやれ。彼女が驕り高ぶり、贅沢をほしいままにしたのと同じほどの苦しみと悲しみを彼女に与えよ。彼女は心の中で、こう言っているから、『わたしは女王の座にあり、やもめではなく、決して憂き目を見ることはない』。それ故、一日のうちにさまざまな災い──死と悲しみと飢えが彼女を襲い、彼女は火で焼き尽くされる。彼女を裁く神なる主は、力ある方だからである」

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

◯エゼキエル書16章2節~3節、32節~34節、35節、36節~38節
「人の子よ、エルサレムにその忌まわしい行為を思い知らせなさい。告げなさい。主なる神はエルサレムに向けて仰せになる」
「夫ではなく、見ず知らずの男と通じている不貞の女よ。そもそも娼婦とは貢がれるものである。ところが、お前は誰彼なく愛人に貢ぎ、付け届けを贈って人々を四方から呼び寄せて姦淫する。お前の姦淫はほかの女とは逆で、尋常でない姦淫を行っている」
「娼婦よ、主の言葉に耳を傾けよ」
「これらの行いに対して、わたしはお前が情を注いだ愛人のすべて、お前が浮かれ、あるいは疎んじた者を一堂に集める。四方から集めた彼らにお前の裸をさらし、丸裸のお前を彼らは眺める。わたしは姦淫、流血ざたを犯した女にふさわしい裁きを下し、怒りと妬みの血をお前に報いる」

◯申命記29章23節〜27節
「国々の民はみな言うであろう、『なぜ主は、この地にこのようなことを行われたのか。この激しく燃える怒りは何故(なにゆえ)なのか』。それに対して、人々は答えるであろう、『彼らの先祖の神、主が彼らをエジプトの地から導き出した時に結ばれた契約を、彼らが捨て、ほかの神々のもとに行って仕え、彼らが知ることなく、割り当てられもしない神々を礼拝したからである。それ故、主は怒りをこの地に対して燃え上がらせ、この書に記されている呪いをことごとくもたらされたのである。主は怒りと憤りと激昂のあまり、彼らをその地から抜き取り、異郷の地へ投げ捨てられ、今日(こんにち)のようにされた』」

◯ヨハネによる福音書9章31節
「わたしたちは知っています。神は罪人の言うことには耳を傾けられませんが、神を敬い、そのみ旨を行う者の言うことには耳を傾けてくださいます」

◯箴言15章29節
「主は悪者から遠ざかり、正しい者の祈りを聞き入れられる」

◯箴言28章9節
「教えに耳を傾けない者は、その祈りまでも忌み嫌われる」

◯マタイによる福音書24章12節
「悪がはびこるので、多くの人の愛が冷える」

◯イザヤ書59章2節
「お前たちと神との間を隔てたのは、まさにお前たちの悪行、み顔を隠させ、聞かれなくしたのは、お前たちの罪なのだ」

◯申命記28章62節〜63節
「あなたたちは空の星のように多かったが、あなたの神、主の声に聞き従わなかったので、僅(わず)かな者しか生き残らない。主はかつてあなたたちを幸福にし、あなたたちを増やすのを喜ばれたように、今は、あなたたちを滅ぼし絶やすのを喜ばれる。あなたたちは、あなたが入っていって所有する土地から引き抜かれる」

◯ガラテヤの人々への手紙5章14節〜15節
「律法全体は、『隣人を自分のように愛せよ』という一句を守ることによって果たされます。しかし、もし互いに嚙(か)み合(あ)い、食い合っているとするなら、互いに滅ぼされないように気をつけなさい」

◯マルコによる福音書12章28節〜34節
「さて、この議論を聞いていた律法学者の一人は、イエスの巧みな答えぶりを見て、進み出て尋ねた、『すべての掟のうちで、どれが第一の掟ですか』。イエスはお答えになった、『第一の掟はこれである、《イスラエルよ、聞け。わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ》。第二の掟はこれである、《隣人をあなた自身のように愛せよ》。この二つの掟よりも大事な掟はない』。そこで、その律法学者は言った、『先生、確かにそうです。主は唯一であり、主のほかに神はないとは、実に立派なお答えです。また、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして、神を愛すること、および隣人を自分自身のように愛することは、どんな焼き尽くす献(ささ)げ物(もの)や犠牲(いけにえ)よりも、遥(はる)かに優れています』。イエスは、その律法学者の賢い受け答えを見て、仰せになった、『あなたは神の国から遠くない』。それ以後は、誰(だれ)もイエスにあえて尋ねようとしなかった」

(注)別エントリー「『携挙』:ギリシア語聖書本文で徹底検証【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7753