ルカ11章41節「器の中にある物を施せ」の「器」とは「土の器」「陶器」の比喩と同様、人間を指す。「器の中にある物」は人間に吹き込まれた「命の息」(創世記2章7節)つまり「霊魂」を意味する。イザヤ58章10節のヘブライ語原文「霊魂を注ぐ」は、「心を配る」(新共同訳)ことを意味する。
(注)別エントリー「試論:『土の器』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「『土の器』(つちのうつは)」も参照のこと。
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【追記】
古代のイスラエル人は、「困っている人に心を配る」(イザヤ58章10節)ことを表現する際には「霊魂を注ぐ」という言い回しを用いた。従ってルカ11章41節「器(=人間)の中にある物(=霊魂)を施せ」の意味は「揚げ足取りをいい加減に止めて、隣人に心を配ることだけを心掛けなさい」である。
箴言15章4節「赦しを与える言葉は命の木」にある通り旧約の民は、他者に幸福や安堵を与える事柄を「命」と表現し、主なる神から命の息を吹き込まれた人間は他者に幸福や安堵を与えることができる、という信念を持っていた。故に主はルカ11章41節で他者に幸福や安堵だけを与えるよう命じられた。
(注)別エントリー「試論:『主にとって赦しも癒し』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:詩編2編のメシアと鉄の杖を140文字以内で」も参照のこと。
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一人の律法学者は自分を「義化」(ルカ10章29節)しようとして(「義人」(マタイ1章19節)とするために)、隣人愛(ルカ10章27節)に関して、主に、踏み込んだ質問を行なった。主は、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛と永遠の命(25節)は事実上重なっているとお教えになった。
(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
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主イエスの「善きサマリア人のたとえ」で、サマリア人は「傷に油とぶどう酒を注ぎ包帯をして、宿屋に連れて行って介抱した」(ルカ10章34節)。さらに、その後のことを宿屋の主人に依頼しておくのも忘れなかった。自分の手に負える範囲を超える際には他人の手を借りる方が良い場合も当然あり得る。
A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。
B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。
C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。
D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。
「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。
(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。
(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
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ガラテヤ5章はヘブライ人特有の「肉と霊」の対比を用い、人間に由来する事柄を「肉」(創世記6章12節)、神に由来する事柄を「霊」と表現する。一ヨハネ4章16節「神は愛です」の具体的内容を、ガラテヤ5章22節以下では「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」と記した。
(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『言は肉となって』???を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネは第一の手紙の4章で「神は愛」と二度(8節、16節)記し、また自分の福音書で「神は御独り子をお与えになったほど、世を愛された」と記す。御独り子である主イエスの《愛の掟》は「他人からしてもらいたいことをあなたから他人にしなさい。これが律法と預言者」(マタイ7章12節)である。
一ヨハネ4章8節、16節「神は愛です」同5章3節「神を愛することとは神の掟を守ることですが、神の掟は、荷が重いものではありません」マタイ7章12節「あなたたちは、自分が他人からしてもらいたいことならどんなことであれ、自分の方から他人にしなさい。これこそが律法であり預言者である」。
一コリント9章21節「わたしは神の律法を持たないわけではなくキリストの律法に従っている」ヨハネ13章34節「わたしがあなたたちを愛したように互いに愛し合いなさい」マタイ7章12節「人からしてもらいたいと思うことは、何であれ、あなたから人にしなさい。これこそが律法と預言者である」。
ガラテヤ6章2節「互いに重荷を担い合いなさい。それがキリストの律法を全うすることになる」ヨハネ13章34節「わたしがあなたたちを愛したように互いに愛し合いなさい」マタイ7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何であれ、あなたから人にしなさい。これこそが、律法と預言者である」。
マタイ7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何でもあなたたちから人にしなさい。これこそが律法と預言者である」ガラテヤ5章14節「律法全体は、隣人愛の掟の実行によって、全うされます」ローマ13章8節「人を愛する者は律法を全うしています」同10節「愛は律法を全うするものです」。
マタイ5章17節「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するため」同7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何でも、あなたたちから人にしなさい。これこそが律法と預言者」ローマ13章9節「他にどんな掟があろうとも、隣人を自分のように愛することに要約されます」。
(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
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(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
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主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちが他人からしてもらいたいと思うことは全て、あなたたちから他人にしなさい」と《愛の掟》を教えられて、「これこそ律法と預言者」と宣言された。これをパウロも「キリストの律法」(一コリント9章21節、ガラテヤ6章2節)と呼びモーセの律法と対比した。