主はマルコ9章49節で「すべての人は火で塩味を付けられねばならない」と仰せになったが、「火」はマタイ3章11節と同じく「火が金銀を精錬する如く人間を清くする主の仰せ」を指し、「塩味」は信仰を指す。主の仰せが人間を清くすることに関しては、ヨハネ15章3節で主御自身が御説明なさった。
(注)別エントリー「試論:『地の塩』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5586
(注)別エントリー「試論:マタイ3章の二つの『火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5795
(注)別エントリー「試論:『聖霊と火』の『火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5770
(注)別エントリー「試論:口から火が迸り出る預言者を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5525