マタイ1章19節は、主の養父ヨセフをディカイオス(義人、正しい人)と呼ぶが、25章「最後の審判」の箇所では、ディカイオス(37節、46節)は「永遠の命にあずかる」(46節)人を意味している。つまり、「神の義」を身に着けることこそが、「永遠の命にあずかる」ことを約束するものである。
(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6798
マタイ1章19節は、主の養父ヨセフをディカイオス(義人、正しい人)と呼ぶが、25章「最後の審判」の箇所では、ディカイオス(37節、46節)は「永遠の命にあずかる」(46節)人を意味している。つまり、「神の義」を身に着けることこそが、「永遠の命にあずかる」ことを約束するものである。
(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
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