聖母マリアは「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方でありながら、「わたしは主のはしため」(38節)と自称されるほど高慢心のかけらもない謙遜そのものの方であった。従って、高慢心との訣別こそが「聖母マリアへの真の信心」へと踏み出す最初の一歩であるのは、至極当然である。
(注)別エントリー「試論:『救い主の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7510
【追記】
受胎告知の際マリアは「恵まれた方」(新共同訳)と呼ばれたが、「恵まれた」とは、
《〔神からの〕とめどもない好意を得た》
の意味で、古代ギリシア語訳箴言を参照すると比類のないこの《好意》は、彼女の「へりくだり」(箴言3章34節)と「善のみの追求」(同11章27節)に対する、恵みである。
(注)別エントリー「試論:『聖寵充ち満てるマリア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8642
(注)別エントリー「試論:マリアの賛歌を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6022
(注)別エントリー「試論:マリアの賛歌とへりくだりを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:へりくだりと恵みを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5777