古代のイスラエル人にとって、「火」が「主の御言葉」(エレミヤ5章14節等)や《人間に直に語り掛けられる神》を象徴するものであるのは周知の事柄だった。なぜなら、「燃える柴」の火の中から「わたしはある」という神がモーセに語り掛けられた、まさにそのことが彼らの信仰の原点だからであった。
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844
(注)別エントリー「試論:主の御言葉と『火』の関係を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8490
(注)別エントリー「試論:『焼き尽くす火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8710
【追記】
たとえ自国の古典文学であっても本文の現代語訳だけで注釈が全くなければ、正しい理解に至るのは難しい。「火」は「主の御言葉」(エレミヤ5章14節等)の喩えであると教わらぬまま「地上に火を投ずる」「聖霊と火による洗礼」等々聞かされても、新約聖書の記述を正確に把握するのは至難の業である。
(注)別エントリー「試論:マタイ3章の二つの『火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5795