試論:「共食い」と「憩い」を140文字以内で

「自分が裁かれないために他人を裁くな」という主の仰せは命令や規則の類ではなく(イザヤ28章13節参照)、それ自体が安息かつ憩いである(同12節)。人間が相手を赦すことを知らず、互いに恨み言をぶつけ合い、互いを裁き続けるならば、最後は共倒れに終わる(ガラテヤ5章15節)からである。

【追記】

ヨハネ1章1節は主イエス・キリストを「言(ことば)」と呼び紹介する。これは「天使や預言者を介することなく、御自分で直接人々に御言葉をお話しになる神」を意味し、「イエス・キリストなんか本当は実在しなかった」と言い立てる人々に対しては、主が残された御言葉それ自体がその存在証明となる。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『主が求められるものは』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7932