ヨハネ5章18節はイエスに対する殺意の理由を「神を御自分の父と呼び、御自身を神と等しい者とされたから」と記す。もしイエスが「わたしは神などではなく単なる人間」と明言していたならば彼は偉大な預言者・学者・思想家として歴史に名を残し、天寿を全うできた。なぜ彼はその道を選ばなかったか?
(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
詩編49編8(7)節は神に対し人間は贖いの業を行うことができないと記す。マタイ20章28節で主イエスは、「人の子(人となった神の独り子)」が世に来た目的とは、御自身が担っている「人間としての全て」を「身代金(詩編49編8節と同表現)」として贖いの業を行うためであると、宣言された。
(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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出エジプト記12章では、イスラエルの人々がファラオの支配から解放される代価となった小羊の存在に言及する。ヨハネ1章29節では、十字架において世の人々が罪の支配から解放される代価となるはずの主イエス・キリストの存在について、洗礼者ヨハネが「神の小羊」と呼んで、注意を喚起したと記す。
(注)別エントリー「試論:世の罪を取り除く神の小羊を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ1章で洗礼者は主イエスを「神の小羊」(29節、36節)と呼んで周囲に注意喚起したが、ペトロは第一の手紙1章19節で「きずや汚(けが)れのない小羊のようなキリスト」と呼び2章22節ではさらに「罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」とイザヤ53章9節を引用し説明する。
主の御受難を預言したイザヤ53章7節では、出エジプトの代価となった「小羊」(出エジプト記12章3節等)を想起させる一方で、「屠(ほふ)り場に引かれる」と表現してイサクの犠牲の身代わりとなった羊(創世記22章13節)をも想起させ、主の御受難が人々の身代わりであることを再認識させる。
黙示録7章16節はイザヤ49章10節を踏襲することで洗礼者が言及した(ヨハネ1章)
「〔神の〕小羊」
とイザヤ書の
「主の僕(しもべ)」
が同一人物であると再確認させ、
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために来た」
(マタイ20章28節、マルコ10章45節)
という事柄をも再確認させる。
ヨハネ1章29節「世の罪を取り除く神の小羊」の「取り除く」に当たるギリシア語は、一ヨハネ3章5節にも登場し、その前後では隣人愛の実践を奨励するが、同じ表現をエフェソ4章31節も用い、主に応えて信者が取り除くべき事柄を「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりを全ての悪意と共に」とする。
(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
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エフェソ4章の後半では「神にかたどって造られた新しい人」として生きるためとして「怒ることはあっても罪を犯してはならない」「日が暮れるまで怒ったままではいけない」「悪い言葉を一切口にしない」「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどの全てを、一切の悪意とともに捨てる」等を勧めている。