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試論:「塩で味付けをする行為」を140文字以内で

レビ2章13節は「穀物の献げ物には全て塩をかけよ。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな」と命じる。モーセの律法の民にとって「塩で味付けをする行為」は神への信仰心を象徴するものであった。主イエスもまた、「塩」を信仰あるいは信仰心の比喩として、御教えを仰せになる際に用いられた。

【追記】

主はマルコ9章49節で「すべての人は火で塩味を付けられねばならない」と仰せになったが、「火」はマタイ3章11節と同じく「火が金銀を精錬する如く人間を清くする主の仰せ」を指し、「塩味」は信仰を指す。主の仰せが人間を清くすることに関しては、ヨハネ15章3節で主御自身が御説明なさった。

(注)別エントリー「試論:マタイ3章の二つの『火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5795

(注)別エントリー「試論:口から火が迸り出る預言者を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5525

エレミヤ5章14節「わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。それは火となり、この民を薪として焼き尽くす」同20章9節「主の名を口にすまいと思っても、主の御言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて火のように燃え上がります」同23章29節「わたしの言葉は、火に似ていないか」。

ルカ12章49節「わたしは地上に火を投ずるために来た。既にその火が燃えていることをどんなに願っているか」同24章32節「主が道でお話しされた時や聖書を説明されていた時、われわれの心は燃えていたではないか」エレミヤ23章29節「わたしの言葉は火のようではないか、と主は仰せになる」。

(注)別エントリー「試論:『火も剣も御言葉の比喩』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7812

主はマタイ5章13節で「塩に塩気がなくなれば」と仰せになり、信者を「塩」、信仰を「塩気」にたとえられたが、ヨハネ15章では同じ事柄を「ぶどうの木」にたとえられて、「わたしにつながっていなさい」(4節)「わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっている」(10節)とお教えになった。

(注)別エントリー「試論:ぶどうの木と『実』の特徴を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9958

マタイ5章13節で主は信者たちを「地の塩」とお呼びになり信仰を「塩気」にたとえられたが、理由は当然マタイ28章19節以下にある通りに全世界が信者たちによって「塩気」で味付けされねばならぬからである。マルコ9章50節では「塩」と「平和」を関連付け、ヨハネ13章35節を既に予告する。

(注)別エントリー「試論:『世の光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5388

マタイ5章9節「平和を実現する人」の「平和」とは、福音書の時代の人々にとっては単に戦争のない(終わった)状態を意味する以外に個々の健康や幸福・繁栄、人間関係の協調・一致や発展、社会や国家の安寧、暴動や反乱のない状態、心の(霊的な)安定など、物事が好転している状況の総称でもあった。

(注)別エントリー「試論:『柔和な人は幸いである』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5976

(注)別エントリー「試論:『心の清い人は神を見る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5937

主イエスは御復活の後、弟子たち(使徒たち)に初めて現われた際「あなたがたに平和があるように」と仰せになった。古代のヘブライ人にとって「平和」は全ての幸福の総称である。挨拶として長い形式ではサムエル上25章6節「あなたに平和、あなたの家に平和、あなたのもの全てに平和があるように」。