箴言15章28節「神に従う人は、神の御旨に応えようと思いを巡らす」ルカ2章17節〜19節「羊飼いたちは幼子について天使たちが話したこととベツレヘムで見た光景とを人々に知らせた。羊飼いたちの話を聞いた者は、皆、不思議に思ったが、マリアは全ての出来事を心に納めて、思い巡らしていた」。
(注)別エントリー「試論:聖書と洞穴を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主のはしため』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主のはしため』(旧約)を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『わたしは主のはしため』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『超自然的な御降誕』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
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【追記】
出エジプト記24章にモーセ一行が「神を見た」とあるが、実際に御姿を見たわけでなく、足台を見たことによって上におられる神を「見た」のである。「心の清い人は幸いである。その人は神を見る」の「見る」も認識するという意味を含むが御降誕の夜、羊飼いたちはマリアやヨセフと実際に、御姿を見た。
(注)別エントリー「試論:ヘブライ人の『神を見る』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『御父をお示しください』を140文字以内で」も参照のこと。
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キリスト教に難癖をつける主張として「冬のイスラエルは雨季だから羊飼いは羊の放牧をしない」があるが統計上、東京とエルサレムの降水量を比較すると12月から1月は、東京では年間で最も降水量が少なく逆にエルサレムは最も多い時期だが、それでも同時期のエルサレムの降水量は東京に少し及ばない。
福音書に救い主の誕生日の記述はないが、旧約聖書のハガイ2章には「神殿の礎」すなわち《神の家の隅の親石(=主イエス・キリスト)》が備えられる日として、古いヘブライの暦で「第九の月の二十四日」という冬の日付が何度も啓示される。この日はユダヤ教のハヌカ(神殿奉献記念祭)と同時期である。
エズラ10章9節以下では、ユダとベニヤミンの男性たちが異邦人の娘たちとの結婚を祭司エズラに咎められ、エルサレム神殿の広場に座っていたと記す。季節はヘブライの暦の「第九の月の二十日」と冬で、恐れと雨とで人々は震えていた。この時の雨量は大集会が雨天でも野外で決行可能な程度だと分かる。
主イエスはマタイ21章42節で、詩編118編22節を踏まえ御自身を「家」の《隅の親石》に喩えられた。他方ハガイ2章は《主の神殿(=神の「家」)の基》が置かれる日(18節)としてヘブライ人の暦で「第九の月の二十四日」と冬の日付を何度も強調する。これはユダヤ教のハヌカと同時期である。
イスラエルの夏は統計上「0」に降水量がなるくらい雨が降らず、冬は雨が夏よりは降り「雨季」と呼ばれる。12月〜1月は東京では年間で最も降水量が少なく、逆にエルサレムは最も多い時期だが、同期のエルサレムの降水量は同期の東京に統計上は少し及ばず日本の梅雨や秋の長雨等とは同一視できない。
ハガイ2章では「神殿の基」(18節)が備えられる日である、古いヘブライの暦で「第九の月の二十四日」という日付が何度も提示される。この日は季節としては冬であり主イエスは御自身〔の体〕を「神殿」(ヨハネ2章19節)あるいは「[神の家の〕隅の親石」(マタイ21章42節)等と表現された。
ルカ2章は聖母が幼子を飼い葉桶に寝かせたと記す。御降誕の洞穴には聖母を乗せて来たろば以外に牛も一頭いたと考えられる。イザヤ1章3節に「牛やろばも飼い主や飼い主の飼い葉桶を知っているのに、わが民イスラエルはわたしを知らず見分けようともしない」と、主の嘆きが預言されているからである。
(注)別エントリー「試論:聖書と『ろば』を140文字以内で」も参照のこと。
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