試論:「自分のように愛する」?を140文字以内で

マタイ5章17節「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するため」同7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何でも、あなたたちから人にしなさい。これこそが律法と預言者」ローマ13章9節「他にどんな掟があろうとも、隣人を自分のように愛することに要約されます」。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
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(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
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【追記】

ガラテヤ6章2節「互いに重荷を担い合いなさい。それがキリストの律法を全うすることになる」ヨハネ13章34節「わたしがあなたたちを愛したように互いに愛し合いなさい」マタイ7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何であれ、あなたから人にしなさい。これこそが、律法と預言者である」。

マタイ7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何でもあなたたちから人にしなさい。これこそが律法と預言者である」ガラテヤ5章14節「律法全体は、隣人愛の掟の実行によって、全うされます」ローマ13章8節「人を愛する者は律法を全うしています」同10節「愛は律法を全うするものです」。

主イエス・キリストはマルコ12章における「最も重要な掟」の第一と第二とを統合され、ヨハネ13章34節で「新しい掟」そして「わたしの掟」(同14章15節)とされた。この掟は隣人愛の実践をもって、神への愛の実践とする(同節)。隣人愛の実行こそがキリストへの信仰をあかしするものとなる。

ヨハネ13章34節以下で主は「新しい掟」について宣言されたが、これこそエレミヤ31章31節の「新しい契約」で、同33節「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」に関して主はヨハネ14章とりわけ21節で説明され、愛の掟を守ることが神の民となるための条件である旨を宣言された。

(注)別エントリー「試論:預言解釈の基本を140文字以内で」も参照のこと。
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ローマ3章でパウロは、「信仰」「律法」という表現で実際には《イエス・キリストを信仰する人々にとっての新しい掟である愛の掟》と《イエスを認めぬ人々が律法とするモーセが与えた掟》とを比較した。人間を「義」とするのは、《律法の掟》の実行ではなく、信仰に基づく《愛の掟》の実行如何による。

(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
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マルコ12章では、主イエス・キリストと一人の律法学者との対話で、申命記6章の「唯一の主」の掟とともに、レビ記19章18節の「隣人愛」の掟が二回(マルコ12章31節、33節)言及されている。マタイ7章12節でも主は「これこそ律法と預言者」と仰せになり、最も重要な掟であると示された。

レビ19章18節は有名な隣人愛の掟を教えるが、その対極の行為として17節は兄弟を心の中で憎むことを禁じる。ゼカリヤ7章10節は互いに災いを心の中で企むこと、8章17節は互いに心の中で悪を企むことを禁じ、相手の困った顔・悲しむ顔・苦しむ顔を見たいという悪意を抱いてはならぬと戒める。

(注)別エントリー「試論:新都エルサレムに住む条件を140文字以内で」も参照のこと。
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ヤコブ2章10節は、モーセの律法は全ての掟に違反しないことで全体に従っていることになると説く。キリスト教は「隣人愛の掟」と直結する掟だけに従い、「割礼」や「豚肉禁」には従わず、「姦淫するな」「殺すな」「盗むな」「貪るな」には従うため、モーセの律法の全体に従っていることにならない。

古代のイスラエル人は、「困っている人に心を配る」(イザヤ58章10節)ことを表現する際には「霊魂を注ぐ」という言い回しを用いた。従ってルカ11章41節「器(=人間)の中にある物(=霊魂)を施せ」の意味は「揚げ足取りをいい加減に止めて、隣人に心を配ることだけを心掛けなさい」である。

(注)別エントリー「試論:『土の器』を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ11章41節「器の中にある物を施せ」の「器」とは「土の器」「陶器」の比喩と同様、人間を指す。「器の中にある物」は人間に吹き込まれた「命の息」(創世記2章7節)つまり「霊魂」を意味する。イザヤ58章10節のヘブライ語原文「霊魂を注ぐ」は、「心を配る」(新共同訳)ことを意味する。

(注)別エントリー「試論:『器の中にある物を施せ』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:詩編2編のメシアと鉄の杖を140文字以内で」も参照のこと。
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箴言15章4節「赦しを与える言葉は命の木」にある通り旧約の民は、他者に幸福や安堵を与える事柄を「命」と表現し、主なる神から命の息を吹き込まれた人間は他者に幸福や安堵を与えることができる、という信念を持っていた。故に主はルカ11章41節で他者に幸福や安堵だけを与えるよう命じられた。

(注)別エントリー「試論:『主にとって赦しも癒し』を140文字以内で」も参照のこと。
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