試論:「貧しい人々は幸い」??を140文字以内で

主はルカ6章20節で「貧しい人々は幸い」と仰せになった。二コリント8章9節は同じ語を用い同15節で出エジプト16章18節を引用して説明する。要領良く遂行できた人にも、残念ながらそうではなかった人にも、神なる主が御自分に忠実な人々に最終的にお与えになる報酬は、各々が必要な分である。

(注)別エントリー「試論:ヘブライ語『貧しい』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

出エジプト16章20節では、モーセの警告に従わず「マナ」(天からのパン)の一部を翌朝まで残しておいた、何人かの貪欲な人々が、翌朝それが虫が付いて臭くなっているのを発見し、彼らはモーセに叱責された。主がルカ6章24節以下で富んでいる人々になさった仰せは、モーセの警告に対応している。

ローマ1章は28節「してはならぬこと」32節「死に値する行い」(32節)に関し29節以下に列挙する。全ての不義と悪、貪欲、悪意、妬み、殺意、不和、詐欺、邪念、悪口、誹謗中傷、神を憎むこと、隣人を侮ること、高慢、大言壮語、悪だくみ、親不孝、御言葉の無視、不誠実、冷酷や無慈悲である。

主はマルコ7章20節以下で、御自分が人々にお望みである「清さ」とは対極にあるもの、つまり「愛」そのものである御自分とは相容れないものについて「悪い思い」と総称され、具体的には、みだらな行い・盗み・殺意・姦淫・貪欲・悪意・詐欺・好色・ねたみ・悪口・傲慢・無分別などだと御説明された。

マタイ19章16節で主に金持ちの青年が永遠の命を得るにはどうすればと尋ねた時、それを彼は比較的容易な事柄と考えていたが、主は同13章44節以下特に46節で、それを手に入れるためにはあらゆる努力を尽くす必要があることを、「宝」「真珠」「持ち物を全て売り払う」等の表現で御説明された。

古代の都市は、防衛や警備の都合上、城壁の内外を往来する城門を狭く造った。大柄なラクダでは通れないため、より小柄なロバ等に隊商は荷を積み替える場合もあった。金持ちは無意識のうちに態度や心掛けが尊大になりがちなので、それを自覚して改めなければ「神の国」の門を通れないと主は警告された。

(注)別エントリー「試論:『ラクダが針の穴を』??を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ10章25節の律法学者と18章18節の議員は同じ質問をした。ただ議員には「心・精神・力・思いを尽くして」の観点が欠けていた。主は議員に、「持ち物を全て売り払う」という表現で勧告なさったが、この表現はマタイ13章44節〜45節のたとえでは《あらゆる努力を尽くす》を象徴している。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
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主イエスはルカ16章の「不正な管理人」のたとえで、私欲のためでなく隣人のために富を費やすならば救いが訪れると仰せになり、後に徴税人ザアカイがその実例となった。19章8節「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。誰かから何かをだまし取っていたならそれを四倍にして返します」。

(注)別エントリー「試論:憐れみは『上から目線』かを140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ19章8節でザアカイは主に「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また何かを誰かからだまし取っていたなら四倍にして返します」と約束した。マタイ5章7節の「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」という御言葉の通り、主は「今日この家に救いが訪れた」と宣言なさった。

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
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