試論:福音書中の御言葉の重要性を140文字以内で

キリストの弟子を自称する人々は多数存在する。しかしキリストの御教えの根幹である《キリストの律法》(あなたが他の人からしてもらいたいことならなんでも、あなたから他の人にしなさい)をおろそかにしながら、いくら「自分は救われる?救われない?」と頭を悩ませても、全く意味のないことである。

(注)別エントリー「試論:『永遠の命を得るには?』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11171

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

【追記】

主はルカ13章23節で救われる者は少ないかと問われ、27節で不義を行う人々が神に拒まれると答えられた。確かに「合格者数」や「合格率」がどうしても気になってしまうのは仕方ないが、だからといって合格と不合格を分ける判断の基準に目が行かなくては本末転倒で、基準は福音書に明記されている。

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8105

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「試論:『救われる者は少ないか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8111

(注)別エントリー「試論:『命に通じる狭い門』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7118

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748