【問】「世の罪を取り除く神の小羊」って、何?
【答】主イエスが、
「多くの人の身代金として自分の命を献げるために」(マタイ20章28節)
「小羊のように、屠り場に引かれ」(イザヤ53章7節)
「民の背きのゆえに命ある者の地から断たれ」(同8節)
という定めを持つ者であることを示す称号です。
ルツ4章7節によれば、古代イスラエルでは親族たちの責務の代行や委譲に際して、自分の履物を脱ぐ慣習があった。主イエスは多くの人の贖(あがな)い、つまり身代金(代価)となるために、世に来られた(マルコ10章45節)。以上の事柄を洗礼者は「履物」「神の小羊」「花婿」等の表現で示唆した。
ヨハネ1章29節「世の罪を取り除く神の小羊」の「取り除く」に当たるギリシア語は、一ヨハネ3章5節にも登場し、その前後では隣人愛の実践を奨励するが、同じ表現をエフェソ4章31節も用い、主に応えて信者が取り除くべきものを「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりを全ての悪意と共に」とする。
エフェソ4章の後半では「神にかたどって造られた新しい人」として生きるためとして「怒ることはあっても罪を犯してはならない」「日が暮れるまで怒ったままではいけない」「悪い言葉を一切口にしない」「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどの全てを、一切の悪意とともに捨てる」等を勧めている。
ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。
一ペトロ2章の冒頭は「霊的な乳飲み子」について語っているが、ここでペトロは「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去る」ことを要請しており、当然ペトロは、あまりにも有名な「人から出て来るものこそ、人を汚す」で始まる、マルコ7章20節から23節の主の御言葉を念頭に置いて説明する。
エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯した全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。
エレミヤ11章19節「わたしは、飼い馴らされた小羊が屠(ほふ)り場に引かれて行くように、何も知らなかった。彼らはわたしに対して、悪巧みをしていた」ヨハネ5章39節「聖書はわたしについて、あかしをするものだ」ルカ24章44節「わたしについて預言者の書にある事柄は必ず全て実現する」。
出エジプト記12章では、イスラエルの人々がファラオの支配から解放される代価となった小羊の存在に言及する。ヨハネ1章29節では、十字架において世の人々が罪の支配から解放される代価となるはずの主イエス・キリストの存在について、洗礼者ヨハネが「神の小羊」と呼んで、注意を喚起したと記す。
福音書の中では病気を表すギリシア語を用いて、パウロは自身の手紙で自分の弱さ(衰弱)を表現した。ヘブライ人にとって「病気→衰弱」という連想は自然であり、これを踏まえて最後の審判の「病気」も解釈されるべきで、イザヤ53章3節「病を知っている」は苦難続きで衰弱するメシアの姿を預言する。
イザヤ50章3節は「わたしは天に暗黒を着せて〔喪に服させ〕さらに粗布で覆う」と預言する。この箇所は、前章から続く「主の僕(しもべ)」すなわち主イエス・キリストに関する啓示であることから、ルカ23章44節以下で主が息を引き取られる前後の、暗黒に包まれた全地との関連が指摘されてきた。
主の御受難を預言したイザヤ53章7節では、出エジプトの代価となった「小羊」(出エジプト記12章3節等)を想起させる一方で、「屠(ほふ)り場に引かれる」と表現してイサクの犠牲の身代わりとなった羊(創世記22章13節)をも想起させ、主の御受難が人々の身代わりであることを再認識させる。
ヨハネ1章で洗礼者は主イエスを「神の小羊」(29節、36節)と呼んで周囲に注意喚起したが、ペトロは第一の手紙1章19節で「きずや汚(けが)れのない小羊のようなキリスト」と呼び2章22節ではさらに「罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」とイザヤ53章9節を引用し説明する。