試論:一コリント「霊の人」を140文字以内で

ヨハネもパウロも伝統的なヘブライの世界観に従い人間に属する事柄を「肉」、神に属する事柄を「霊」と呼んだ。一コリント14章37節でパウロは、「自分には神の霊(聖霊)が働いている」と周囲に軽々しく吹聴する人々を、「自分を「霊の人』と思っている者」と呼んで、彼らへ厳しい自省を要請した。

(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7740

(注)別エントリー「試論:ガラテヤ5章の『肉と霊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7657

(注)別エントリー「試論:聖書と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7649

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを識別する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14194

【追記】

詩編1編1節は神と共にいるための必要三条件を記す。一つ目は神に逆らう人に同調しないこと、二つ目は罪や悪に走らないこと、三つ目は高慢心を捨てることである。高慢で周囲の人々を粗略に扱う人は、いつか必ず神をも粗略に扱う。神の御独り子の母となった女性が高慢心とは無縁であるのは当然である。

【問】マラキ3章19節は高慢な者と悪を行う者を同列に論じますが、なぜですか?
【答】詩編1編1節の通り旧約の民は神に従わぬ者と罪人と高慢な者を同列に扱いました。エバは創世記3章で神のようになることを望みましたが、マリアはルカ1章38節で自分は主のはしために過ぎないと謙遜しました。

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

主は「いつでも戸を開けられるように目を覚ましていなさい」と仰せになり、普段から心の準備をすることが弟子としての心構えであると教えられた。主の母親となるべき女性がその少女期、当時最もしかるべき教育の場であった神殿の聖所で奉仕の日々を送ったという概念は、極めて蓋然性の高い話と言える。

カトリックでは聖母マリアを「無原罪」つまりサタンの悪影響とは全く無縁の女性と教え、少女期の聖母が神殿で十年以上奉献生活を送り教育を受けたと教える。聖母は長年、救い主やあがないについて思い巡らしていた。受胎告知の際の言葉「わたしは主のはしため」は一朝一夕に出て来る類のものではない。

箴言3章34節は「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」と説く。「自分は誰かの召使になった覚えはないし、他の人のためにあれこれするなど、やってられない」と放言する人は「キリストの律法」を絶対に実行できないし、神がお与えになる恵みもまた、永遠にその人には届かない。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』と世情を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18499

ルカ2章51節は少年時代の主イエスが両親に従っておられたと記す。他方、4章5節から8節は悪魔が主を誘惑して自分に従わせようとしたが、主は断固として拒まれたと記す。今、キリストの弟子を自称する人々が、母マリアを拒む一方で悪の誘惑には抵抗できないとしたら、彼らの本籍はどこにあるのか?

(注)別エントリー「試論:『女』とサタンの対立を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10314

(注)別エントリー「試論:『マリアとヨセフと聖書』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16295