【問】ルツ記のタルグム(短い注釈付きのアラム語訳)は、ミカルは夫婦仲を裂かれ別の男に嫁がされたが彼は彼女と距離を保った伝承を記すそうです。
【答】マタイ5章32節「不法な結婚でもないのに離縁された女を妻にする男も、姦通の罪を犯すことになる」と同じ観念は当然古代ユダヤに存在しました。
【追記】
【問】サウルは王に選ばれたものの途中で道を誤り神なる主やサムエルに見離され転落の道を歩みました。どうすればよかったの?
【答】サウルの息子ヨナタンはダビデの親友で、サウルの娘ミカルはダビデに嫁ぎました。もしもサウルが「自分は引退し娘婿に王位を譲る」とだけ言えば全て丸く収まりました。
ダビデは自分の詩編で、神の救いを切望する自分の内面を「貧しい」と表現したが、《イスラエルの王だとしても、神の御前では自分は無一物に等しい》という自覚の故だった。「神の箱」の帰還に喜び踊りミカルから「からっぽ」呼ばわりされても、ダビデは自分が「からっぽ」であることを否定しなかった。
ダビデの詩編では神からの救いを切望する人の内面を「貧しい」と表現するが、特に詩編34編では7(6)節のように「救い」と「(内面の)貧しさ」が表裏一体として述べられている。たとえイスラエルの王であろうとも全能の神なる主の御前では無一物に等しいという自覚が、この表現の背景に存在する。
生涯の大半、ダビデ王は貧困とは無縁に見えたが、詩編で神の救いを切望(40編14節、70編2節)する際、自身の内面を「貧しい」と表現した(40編18節、70編6節)。ダビデの詩編を踏まえればマタイ5章3節に登場する「心の貧しい人」とは実際には、神の救いを切望している人のことである。
マタイ5章3節の日本語は概ね、「心の貧しい人」と訳されるが、「心の」と訳されたギリシア語本文の表現はマルコ2章6節では「心の中で」となる。マタイ5章3節を「心の中で貧しい人」と捉えるならそれはダビデの詩編の中で自分の内面を「貧しい」と表現して神の救いを切望している人のことである。
【問】主イエスの養父ヨセフはマタイ1章19節で「正しい人」と呼ばれます。古代のイスラエル人にとって「正しい」とは何ですか?
【答】サムエル上24章18節「お前(=ダビデ)はわたし(=サウル王)よりも正しい。わたしはお前に悪意で向き合っているのに、お前はわたしに善意を示してくれた」。