マタイ13章41節「つまずき」

【問】マタイ13章41節に「つまずきとなるものすべて」とありますが、この「つまずき」って何?
【答】「義の道」(マタイ21章32節)である主イエス・キリストの御教えから、足を踏み外すこと、または足を踏み外させる物事です。主はヨハネ14章6節で「わたしは道である」と仰せになりました。

主が「わたしは道である」(ヨハネ14章6節)と称される場合、自身が御父へ通じる唯一無二の存在だと示唆するだけでなく、日本語の「人としての道から外れる」と同様に誰もがそこを通って進んで行くべき人間としての道筋、すなわち御父である神の御前における模範(同13章15節)の意味をも含む。

【問】ヨハネ16章10節の「義について」の「義」って、何?
【答】主イエスはマタイ21章32節で「ヨハネ(=洗礼者)が『義の道』を示したのに」と仰せになり、御自身を「義の道」と表現されました。ヨハネ14章6節では、御自身を「道」と呼ばれました。「義について」の「義」も主御自身です。

【問】「義」が主イエス御自身ならば「義についての世の誤り」とは何ですか?
【答】主イエスの御昇天の後、俗世間は「イエスがいなくなれば弟子たちは目標を見失い、イエスが起こした活動は自然消滅する」と高を括るだろうが、そうはならないことを主は既に予告されていました(ヨハネ14章19節)。

知恵の書1章15節は、「義」は滅びないと記す。マタイ1章19節は主の養父ヨセフをディカイオス、つまり「義」を体現した人だと紹介する。同25章の「最後の審判」ではディカイオスは、「永遠の命」つまり天国の福楽が確約されている人を指す。主イエスも「義の道」を同21章32節で自称された。

「道」とは全ての人が生きる上で辿るべき道筋(道理・規範)でイエスがその模範であること、「真理」とは人が信仰・礼拝すべき三位一体の唯一の神を指し御父・御子・聖霊の間に矛盾がないこと、「命」とは幸福・安堵・充足等の人を生かすものの全てで人間にそれを授ける源は唯一の神ということを指す。

【問】主イエスはなぜ「義に飢え渇く人は満たされる」と人々に仰せになったの?
【答】「義の道」(マタイ21章32節、二ペトロ2章21節)であられる救い主は「命のパン」(ヨハネ6章35節)「生きた水の源」(ヨハネ4章14節、同7章37節、エレミヤ17章13節参照)でもあられるからです。

【問】マリアの賛歌では憐れみという言葉が二回も登場しますが、なぜですか?
【答】それが神なる主の特徴であるからで、主イエス・キリストは「知恵」(ルカ7章35節)を自称されましたが、箴言8章20節は「知恵」が歩んで行くのは憐れみの道と「義の道」(マタイ21章32節)であると教えます。

【問】主イエスのマタイ21章32節の仰せ「義の道」って何?
【答】ヨハネ14章6節の仰せ「わたしは道」を踏まえれば、主は「義の道」という表現で御自身を暗示されました。「徴税人や娼婦たちは彼を信じた」の「信じた」とは信仰の対象としての意味で、彼らの信仰の対象は洗礼者でなく救い主です。

二ペトロ2章21節「『義の道」(=主イエス・キリスト)を知りながら自分たちに与えられた聖なる掟(ヨハネ13章34節、マタイ7章12節)から離れ去るより、『義の道』を知らなかった方が、彼らのためには良かった」箴言8章20節「わたし(=知恵)が歩んで行くのは、憐れみの道と、義の道」。

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道である」と仰せになったが、この場合の「道」とは、全ての人が生きて行く上で辿るべき道筋(道理・規範)を指し、御自身がその模範であることをも意味する。ホセア14章10(9)節「主の道は正しい。神に従う人はその道を歩み、神に逆らう人はつまずく」。

箴言10章29節は「主の道は義人が頼みとするところであり悪人を滅亡へと導く」と説く。この場合の「道」とは、《主が掟や御教えによってお示しになっている誰もがそこを通って進んで行くべき道筋》つまり「主の規範・指針」を意味し、悪人の「滅亡」とは「永遠の罰」(マタイ25章46節)を指す。

キリスト教の信仰に関して使徒言行録は、度々これを「道」と表現し(9章2節、18章25節、同26節、19章9節、同23節、22章4節、24章14節、同22節)、ヨハネ14章6節で主イエス御自身も御自分を「道」と表現され、御自分を通らなければ天の御父のもとには行けないと仰せになった。

日本語でも「人としての道から外れる」などと表現するように、主イエスが「わたしは道」と仰せになる際の「道」とは、誰もがそこを通って進んで行くべき人間としての道筋、つまり御父である神の御前における、人間としてのあるべき姿(人間としてのあり方や生き方の規範・模範)という意味合いである。