【問】主イエスはなぜマタイ11章20節以下で町々をお叱りになったの?
【答】主イエスは、誰かが人を人とも思わない態度つまり高慢な姿勢を示した時お叱りになります(詩編1編1節、箴言3章34節)。主がいくら奇跡を行われてもある人々は「悪霊の力で悪霊を追い出した」と片付けようとしました。
【追記】
【問】なぜ主イエスは、町々をソドムより悪いと仰せになったの?
【答】ソドムで御使いたちは人々に不思議な業を行いましたが「目くらまし」に過ぎませんでした(創世記19章11節)。しかし主イエスが町々で人々に対して行われた不思議な業は、それらの人々を牢獄から解放するに等しい、賜物でした。
詩編1編1節は幸いな者として「神の逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず」と歌い、「神は高慢な者を敵とされ、へりくだる者に恵みをお与えになる」(箴言3章34節、ヤコブ4章6節、一ペトロ5章5節)と同様に、高慢心は信仰と相容れないことを説く。
(注)別エントリー「試論:『恵みとへりくだり』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8781
【問】マラキ3章19節は高慢な者と悪を行う者を同列に論じますが、なぜですか?
【答】詩編1編1節の通り旧約の民は神に従わぬ者と罪人と高慢な者を同列に扱いました。エバは創世記3章で神のようになることを望みましたが、マリアはルカ1章38節で自分は主のはしために過ぎないと謙遜しました。
詩編1編1節は神と共にいるための必要三条件を記す。一つ目は神に逆らう人に同調しないこと、二つ目は罪や悪に走らないこと、三つ目は高慢心を捨てることである。高慢で周囲の人々を粗略に扱う人は、いつか必ず神をも粗略に扱う。神の御独り子の母となった女性が高慢心とは無縁であるのは当然である。
(注)別エントリー「試論:『しもべ』と『はしため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9785
(注)別エントリー「試論:『わたしの主』と母マリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8575