試論:「わたしは生きている」?を140文字以内で

主が「わたしは生きている」と仰せになる際、エゼキエル33章11節のように《御自分こそ「命(永遠の命)」を与える神でありどんな悪人だろうと御自分に立ち帰るならば「永遠の死」を避けられる》の御旨の場合がある。「わたしは悪人が立ち帰って生きる方を喜び悪人が回心せずに死ぬ方を喜ばない」。

(注)別エントリー「試論:エゼキエル18章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5726

(注)別エントリー「試論:『命に通じる門』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10525

(注)別エントリー「試論:『わたしは命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10562

【追記】

「善い盗賊」はルカ23章で、「悪い盗賊」の罵りから主イエスを擁護し(40節)、自分のこれまでの悪事を素直に認める一方(41節)、主には悪いものは一つもないと宣言し(同節)、最後に自分は主によって救われたいと、真摯に希望した(42節)。主は「善い盗賊」に、永遠の幸福を御約束された。

ルカ23章40節以下で主の隣の十字架につけられた盗賊は最後に神への畏れを知り、自分の今の惨めな境遇は全て自業自得だが神には罪はなく神の御心に適う願いなら聞き入れられると確信し、自分の隣にいるのは神そのものであると信じて直接それを伝えた。彼の信仰告白に主は最大の幸福を御約束された。

(注)別エントリー「神に対する確信を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5613