試論:主イエス不在のキリスト教を140文字以内で

一ヨハネ4章は信用してはならない人の特徴として、キリスト教を語っているようでいて実は世間に通じる話題ばかりで、主イエスが実際に教えられた福音書の御言葉を巧妙にそして頑に、事実上無視していることを挙げる。「神の御言葉」として来られた方の実際の仰せに触れない人の言い草など意味がない。

(注)別エントリー「試論:『教えに耳を傾けない人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7113

(注)別エントリー「試論:『選ばれた人は選んだ人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8034

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:『招かれる』『選ばれる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8012

(注)別エントリー「試論:『笛は吹かれたけれども』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8056

(注)別エントリー「試論:『神は誰を選ばれるのか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8051

(注)別エントリー「試論:『主イエスを見失うこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5954

(注)別エントリー「試論:『主に聞き従うこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5685

(注)別エントリー「試論:『終わりの時』の人々の姿を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10858