試論:「柔和」を140文字以内で

「柔和な人」と同じ単語を古代のギリシア語訳民数記12章3節は用い、モーセを他の誰よりも「柔和」だったとした。モーセが姉ミリアムと兄アロンに難癖をつけられた際、ミリアムは厳しく主に罰せられたが、モーセは姉のために救いを求めて主に叫び、この時のモーセの態度が「柔和」の代表例とされた。

(注)別エントリー「民数記12章3節:モーセの人となり」も参照のこと。
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【追記】

創世記50章20節以下「『あなたたちはわたしに災いを企みましたが、神はそれを幸いに変えて多くの民の命を救うため、今あるようにして下さいました。恐れないで下さい。わたしが、あなたたちとあなたたちの家族を養いましょう』。ヨセフはこのように語り兄たちを安心させ、その不安を取り除いた」。

主は「柔和な人は幸いである。その人は地を受け継ぐ」と仰せになったが、「柔和な人は地を受け継ぎ(安心感で満たされる)」という表現は古代のギリシア語訳詩編の36編(日本語訳では37編)11節にもみられ、8節は憤怒の放棄を勧める。「地を受け継ぐ」は9,22,29,34節にも用いられる。

民数記12章でモーセは「あなたの妻はイスラエル人ではない」と姉や兄から難癖をつけられた。それは何十年も前からのことであり姉や兄も百も承知のはずで、「何を今更」「言うに事欠いて」の話だが、姉や兄が自分に不満を抱いていることに対し、モーセは主なる神に全て委ね、自分では相手しなかった。

主はヨハネ3章3節で「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」と仰せになられた。エフェソ4章31節以下では無慈悲・憤り・怒り・わめき・そしりなどの全てを一切の悪意と共に捨てるよう勧め、互いに親切にし合い、憐れみの心で接し合い、またキリストにならい赦し合うよう勧める。

神の国に入るためには「神の義」が不可欠であることを主は「礼服」という比喩で御説明された。コロサイ3章では「着る」べきものは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛と挙げる。マタイ11章で主は「わたしは柔和で謙遜な者だから」(29節)「わたしの荷は軽い」(30節)などと仰せになった。

主はマタイ11章30節で、「わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽い」と仰せになった。主が人々に求められるものとは、「神の義(正義)」と言えばどこか厳格な響きがするが、実際に「神の義」を構成するのは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛などの事柄である(コロサイ3章)。

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエス・キリストはマルコ12章における「最も重要な掟」の第一と第二とを統合され、ヨハネ13章34節で「新しい掟」そして「わたしの掟」(同14章15節)とされた。この掟は隣人愛の実践をもって、神への愛の実践とする(同節)。隣人愛の実行こそがキリストへの信仰をあかしするものとなる。

(注)別エントリー「試論:『神への愛』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『新しい契約』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『わたしの掟』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『すべてが要約された掟』を140文字以内で」も参照のこと。
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