フィリピ2章7節は「僕(しもべ)の身分になり」と、人となられた主イエスに対し
「僕(しもべ)」
という表現をあえて使うことで、イエスがイザヤ書の49章から50章に預言される
「主の僕(しもべ)」
だったと示唆し、またイエスが
「仕えるために来た」(マタイ20章28節)
ことをも再確認させる。
(注)別エントリー「試論:『言葉は剣』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7862
(注)別エントリー「試論:『身代金(贖いの代価)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7872
(注)別エントリー「試論:イザヤの預言と主の御受難を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
神は本来、神以外の存在に変質(劣化)できない以上、「神が人となる」ためには神のままで人間としての全てを担う(引き受ける)必要があった。これをヨハネ1章14節は「〔神の〕御言葉は肉となる」として記し、ニケア・コンスタンチノープル信条は「おとめマリアよりからだを受け」として表現した。
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神が人となるためには』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神が人となる』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
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古代のヘブライ人は「肉」という言葉で、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけでなく、魂も含めた人間としての全体)」を表した。ヨハネ1章14節をこの観点で理解すれば、ニケア・コンスタンチノープル信条「おとめマリアよりからだを受け」の「からだ」は、人間としての全てを意味している。
(注)別エントリー「試論:『イエスとマリアの関係』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:聖書と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
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古代のヘブライ人は「肉」を、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけではなく魂も含めた人間の全体。)」を表す言葉として用いていた。創世記6章12節「すべて肉なる者は堕落の道を歩んでいた」(新共同訳)。日本語訳の「肉なる者」に対応する語は、ヘブライ語本文ではただ単に「肉」である。
(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエス・キリストは、人間たちに模範(ヨハネ13章34節)を示されるために、神であり続けながら(ヘブライ13章8節)人間の肉体と魂を担われた(ヨハネ1章14節)以上は、神として教えられた掟(申命記5章16節)を人間として自ら忠実に実践された(ルカ2章51節、マタイ20章28節)。