マタイ1章19節は主イエスの養父をディカイオス(正しい人、義人)と呼ぶ。同25節の最後の審判の箇所はディカイオスとはどのような人かを描き、最終的に彼がどうなるのかを記す。そして東方の博士たちの訪問の際も、十二歳のイエスを神殿に発見した際にも、ヨセフは出しゃばることが全くなかった。
(注)別エントリー「試論:『養父ヨセフこそ理想像』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『三人家族の三番目』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
マリアの妊娠にヨセフが微塵でも不満を抱き続けていたなら、彼はエジプトに逃げる途中の荒れ野で、「預言者エリヤも任務を捨てて逃げたがそれでも天使はエリヤを励ました。あなたの産んだ子が神の子なら、天使があなたたちを助けてくれるはずだ」と母子を置き去りにしただろうが、彼はそうしなかった。
(注)別エントリー「試論:『義人は意地悪をしない』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:預言者エリヤと義人ヨセフを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:エリヤとヨセフを140文字以内で」も参照のこと。
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カトリックではナザレの聖家族は三人と教える。主の養父ヨセフは終生、息子と妻の望むことだけを行い、三人家族の三番目であるかのように振舞い後世の人々からもそう思われた。世の男性たちが子供たちや女性たちを平然と虐待する、毒々しい時代が来る時、ヨセフの存在は強力な解毒剤として働くだろう。
(注)別エントリー「試論:『永遠の命を得るには?』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
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マタイ福音書は後世への教訓に、最初の二つの章で主の養父ヨセフを模範として掲載した。ヨセフは忍耐強く、情け深く、自慢せず、高ぶらず、礼を失わず、自分の利益を求めず、恨みを抱かず、苛立たず、不義を喜ばず、真理を喜んだ。イエスとマリアのために、全てのことを忍び、確信し、待望し、耐えた。
(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:マリアとヨセフに倣う事柄を140文字以内で」も参照のこと。
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