マリアの妊娠にヨセフが微塵でも不満を抱き続けていたなら、彼はエジプトに逃げる途中の荒れ野で、「預言者エリヤも任務を捨てて逃げたがそれでも天使はエリヤを励ました。あなたの産んだ子が神の子なら、天使があなたたちを助けてくれるはずだ」と母子を置き去りにしただろうが、彼はそうしなかった。
(注)別エントリー「試論:預言者エリヤと義人ヨセフを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11055
(注)別エントリー「試論:エリヤとヨセフを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6005
(注)別エントリー「試論:『養父ヨセフこそ理想像』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11873
【追記】
レビ19章18節は有名な隣人愛の掟を教えるが、その対極の行為として17節は兄弟を心の中で憎むことを禁じる。ゼカリヤ7章10節は互いに災いを心の中で企むこと、8章17節は互いに心の中で悪を企むことを禁じ、相手の困った顔・悲しむ顔・苦しむ顔を見たいという悪意を抱いてはならぬと戒める。
ローマ13章10節でパウロは「愛とは隣人に対して悪事を行わないことです」と断言している。これを踏まえるなら、隣人に対して悪事を行おうと企むことこそが愛の反対に該当する行為ということになる。同9節は「姦淫するな、殺すな、盗むな、貪るな(他人の物の横取りを企むな)」等を列挙している。
箴言26章19節は日本語で「悪乗り」と呼ばれる行為を戒め、「親しき仲にも礼儀あり」という事柄を想起させる(詩編15編3節参照)。箴言26章18節は「死の矢」という表現を用いるが、旧約聖書の「剣」と「矢」は《心に刺さる言葉》の比喩(詩編64編4(3)節等)で、隣人への暴言を戒める。
(注)別エントリー「試論:『言葉』と『心の傷』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8216
(注)別エントリー「試論:『言葉の刃』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8308
(注)別エントリー「試論:『火も剣も御言葉の比喩』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7812
レビ19章18節は「自分自身を愛するように隣人を愛する」という隣人愛を命じ、同章ではその隣人愛の対極にある様々な行為を禁じる。17節は「心の中で兄弟を憎んではならない」と悪意を秘めたまま隣人に接することを禁じて「出来心(ふざけただけ)」という言い訳も認めない(箴言26章19節)。
(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
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レビ19章18節は「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」17節は「心の中で兄弟を憎んではならない」ゼカリヤ7章9節は「互いにいたわり合い憐れみ深くありなさい」10節は「互いに災いを心にたくらんではならない」と教える。「心の中で憎む」とは相手の不幸を心の中で望むことを意味する。
(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884
(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982
主イエスは隣人愛の掟を、最も重要な掟の第二と呼ばれた。レビ19章14節と申命記27章18節は、耳や目の不自由な人や道に迷って困っている人を笑い者にするなと教える。レビ19章17節は、以前に迷惑をかけられたわけでもない相手に対し、理由のない悪意を抱いた状態で接してはならぬと教える。
(注)別エントリー「試論:『わたしは道』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
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レビ記19章には18節に有名な隣人愛の掟があるが、それに先立つ箇所には隣人愛に反する様々な行為を禁じる掟が列挙される。14節では、耳の不自由な人がいる前でその人が聴こえないのをいいことに悪口を言う行為と、目の不自由な人が歩いて行く方向に障害物を置いて邪魔をする行為とが禁じられる。
主はヨハネ3章3節で「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」と仰せになられた。エフェソ4章31節以下では無慈悲・憤り・怒り・わめき・そしりなどの全てを一切の悪意と共に捨てるよう勧め、互いに親切にし合い、憐れみの心で接し合い、またキリストにならい赦し合うよう勧める。
主イエス・キリストはマルコ12章における「最も重要な掟」の第一と第二とを統合され、ヨハネ13章34節で「新しい掟」そして「わたしの掟」(同14章15節)とされた。この掟は隣人愛の実践をもって、神への愛の実践とする(同節)。隣人愛の実行こそがキリストへの信仰をあかしするものとなる。
神の国に入るためには「神の義」が不可欠であることを主は「礼服」という比喩で御説明された。コロサイ3章では「着る」べきものは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛と挙げる。マタイ11章で主は「わたしは柔和で謙遜な者だから」(29節)「わたしの荷は軽い」(30節)などと仰せになった。
主はマタイ11章30節で、「わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽い」と仰せになった。主が人々に求められるものとは、「神の義(正義)」と言えばどこか厳格な響きがするが、実際に「神の義」を構成するのは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛などの事柄である(コロサイ3章)。
(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748