試論:「放蕩息子」「父親」誰?を140文字以内で

イザヤ55章6節〜7節「まだ主を見つけられる間に、主を尋ね求めなさい。まだ主を近くに感じている間に、呼び求めなさい。神に逆らう者は不従順の道から離れなさい。善からぬことを行う者は悪巧みを捨てなさい。わたしたちの神である主に立ち帰るなら主は憐れんで下さり、どこまでも赦して下さる」。

(注)別エントリー「試論:イザヤ58章『真の断食』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:イザヤ58章の『世の光』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)では、ヨハネ14章6節で「真理(まこと)」と平仮名を振る。詩編145編18節「主は、まことをもって呼び求める人々すべての近くにおられる」に対応するためだが、詩編のこの節の「まこと」とは、《真心(まごころ)》を意味している。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:聖書の『まこと』って何?を140文字以内で」も参照のこと。
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詩編145(144)編19節には「主は御自分を畏れる人々の望みをかなえられ、彼らの救いを求める叫びを聞けば願いを聞き入れてくださる」とある。主イエスは水の上から沈みかけたペトロにすぐ手を延ばしてつかまえられ、悪霊に苦しめられ続ける娘を持つカナンの女性の叫びに願いを聞き入れられた。

フィリピ4章でパウロは、「喜びなさい」(4節)「主はすぐ近くにおられる」(5節)と説く。神の義に適うことを行い続ける限り(8節〜9節、マタイ6章33節)、主イエスから「お前たちなど知らない。わたしから離れ去れ」(ルカ13章27節、マタイ7章23節)と拒まれる心配がないからである。

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『砂の上に家を建てる人』を140文字以内で」も参照のこと。
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いつも喜んでいるようにと一テサロニケ5章16節は勧める。ローマ12章15節は喜んでいる人がいれば一緒に喜び、悲しんでいる人がいれば一緒に悲しむことを勧める。フィリピ2章18節でもパウロは喜ぶことを勧めるが、その前段階として14節では何事にも不平や理屈を言わないようにとまず勧める。

(注)別エントリー「試論:憐れみは誰のところへ??を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ7章は「門」という比喩で、「神の国」に入るための条件「神の義」(6章33節)を表現した。これは詩編118編19節以下「義の門よ開け。この門は主の門だ。主に従う者はここから入る」とともに、イザヤ26章2節「門よ開け。信仰を守って神の義に従う民が入れるように」とも関連している。

(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
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