エゼキエル18章21節「もしもその者が悪人だったとしても、これまでに犯した全ての過ちから離れ、わたしの掟をことごとく守り正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない」同23節「わたしが悪人の死を喜ぶだろうか。むしろ彼が悪の道から立ち帰って、生きることを喜ばないだろうか」。
【追記】
ローマ6章4節は洗礼の意義を「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるため」と記しており、12節以下では「あなたたちの死ぬべき体を罪に支配させ欲望に従属してはならず、また体を不義のための道具として罪に従属してはならない」と戒める。
主はマタイ4章4節で、「人はパンだけで生きる者ではなく、主の口から出る全ての言葉によって生きる者である」と申命記8章3節の言葉で、悪魔の誘惑に返された。ヨハネ1章1節は、御父の独り子である御子イエス・キリストを「神の御言葉」と呼ぶ。福音書の主の仰せを抜きにした信仰などありえない。
(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは命である」と仰せになった。古代のヘブライ人にとって「命」はあらゆる幸福の総称(申命記30章参照)だが。使徒言行録5章20節や一ヨハネ1章1節は主イエスの御言葉つまり福音を「命の言葉」と呼び、フィリピ2章16節も命の言葉を指針とするよう勧める。
(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
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申命記30章15節には「わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く」とある。この章で「命」は、「祝福」(1節)「幸い」(5節)「恵み」「実り」「繁栄」「喜び」(9節)等の総称で、20節は「あなたの神、主を愛し、御声を聞き、付き従いなさい。それこそあなたの命である」と説く。
(注)別エントリー「試論:『永遠の命』の『命』を140文字以内で」も参照のこと。
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