箴言15章4節では赦しを与える言葉を命の木と記し、相手に安堵と幸福を与える言葉を「命」と表現した。創世記50章では父の死を機に復讐されるのではないかと恐れる兄たちに対し、ヨセフは赦しを再確認する言葉で安堵させた。ヨハネ6章68節は主イエスを「永遠の命の言葉を持つ」と表現している。
(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主にとって赦しも癒し』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
有名な「命の木」という表現は創世記と黙示録に登場し、主なる神が人間のために準備された何物かを指す言葉だが、箴言3章18節では知恵に関連してこの表現を用いて、それが幸福の源であると示す。11章30節「神に従う人の結ぶ実」13章12節「叶えられた望み」15章4節「癒しを与える言葉」。
創世記50章20節以下「『あなたたちはわたしに災いを企みましたが、神はそれを幸いに変えて多くの民の命を救うため、今あるようにして下さいました。恐れないで下さい。わたしが、あなたたちとあなたたちの家族を養いましょう』。ヨセフはこのように語り兄たちを安心させ、その不安を取り除いた」。
(注)別エントリー「試論:『柔和とは』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ1章1節は主イエスを「言(ことば)」と呼ぶが、一ヨハネ1章1節は「命の言」と呼ぶ。申命記8章3節の通り、主は御言葉で命を与えるが、ヨハネ17章3節では「知る」という表現で「永遠の命」を説明し、一ヨハネ2章3節では「知る」とは「掟(ヨハネ13章34節)を守る」ことと説明する。
(注)別エントリー「『永遠の命』と『新しい掟』」も参照のこと。
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申命記8章3節は「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」と記した。ヨハネ1章1節は《人々に直にお話しになる神である、御子である神》、すなわち主イエス・キリストを、「言(ことば)」すなわち《神の御言葉》という称号で表現し、また同4節は「言(ことば)の内に命があった」と記す。
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『人となられても神は神』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ19章16節で主に金持ちの青年が永遠の命を得るにはどうすればと尋ねた時、それを彼は比較的容易な事柄と考えていたが、主は同13章44節以下特に46節で、それを手に入れるためにはあらゆる努力を尽くす必要があることを、「宝」「真珠」「持ち物を全て売り払う」等の表現で御説明された。
(注)別エントリー「試論:『招かれる』『選ばれる』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『御言葉によって生きる』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。
(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ10章25節の律法学者と18章18節の議員は同じ質問をした。ただ議員には「心・精神・力・思いを尽くして」の観点が欠けていた。主は議員に、「持ち物を全て売り払う」という表現で勧告なさったが、この表現はマタイ13章44節〜45節のたとえでは《あらゆる努力を尽くす》を象徴している。
(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
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