主イエスはルカ9章で「パンの奇跡」を行われたが、その前に治療の必要な人々を癒され神の国について教えられた。マタイ6章33節で神の国と神の義とをまず求めるよう勧められたが、同7章12節では、それは「自分が他の人からしてもらいたいことなら全て自分から他の人にする」ことだと教えられた。
(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494
(注)別エントリー「試論:マルコ8章『パンの奇跡』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
主イエスはパンを増やし五千人の群衆に食べ物を与えるという奇跡を行われた。類似の奇跡は列王下4章42節以下で「神の人」預言者エリシャも行っていた。主イエスの神の御独り子たる本領は「生まれつき目が見えなかった人の視力を回復させた」(ヨハネ9章32節、イザヤ35章5節)時に発揮された。
(注)別エントリー「試論:ヨハネ6章『パンの奇跡』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『救い主の識別』を140文字以内で」も参照のこと。
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主が集まった群衆のためにパンを増やす奇跡を行われたことは有名だが、その少し前に弟子たちが極度の空腹のため安息日に麦畑で穂を摘み直に麦を口にし、ファリサイ派の人々と論争になった。なぜ主は奇跡で弟子たちの空腹を満たそうとはされなかったのか? 「現世利益」目的では奇跡を主は行われない。
(注)別エントリー「試論:『空腹をしのぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ6章51節「わたしは天から降(くだ)って来たパンであり、このパンを食べる者は永遠に生きる」ルカ4章4節「人はパンだけで生きる者ではない」申命記8章3節「人はパンだけで生きる者ではなく主の口から出る全ての言葉で生きる」ヨハネ6章68節「あなたこそ永遠の命の言葉を語る方です」。
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「御自分でお話しになる神」の意味で《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり、直接お話しになった記録が福音書である。福音書を読まないことは主イエス・キリストを理解しようとしないことに等しい。
(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
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主は山上の説教で「神の義に飢え渇く人は幸い。その人は満たされる」と仰せになった。その理由はヨハネ6章35節で説明される。「わたしは命のパンである。わたしの許に来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」同7章37節「渇く人は、わたしの許で飲みなさい」。
ヨハネ6章51節「わたしが与えるパンとは世を生かすための、わたしの肉のことである」同33節「神のパンは天から降(くだ)って来て世に命を与える」マルコ14章22節「これはわたしの体である」申命記8章3節「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出る、全ての御言葉によって生きる」。
主はヨハネ6章27節で御自分の仰せになる《神の御言葉》を「永遠の命に至る食べ物」にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「永遠の命にあずかる」と「天の国を受け継ぐ」は同義だが、御言葉を日々味わうことによって人は天の国を受け継ぐにふさわしい存在へと少しずつ霊的に成長するからである。
ヨハネ6章27節「あなたたちは、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」32節「わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる」33節「神からのパンは、天から下って来て人間世界に命を与える」35節「わたしこそが、その命のパンである。わたしの許に来る者は、飢えることが決してない」。