ヨハネ3章33節は「天から来られた方のあかしを受け入れる者は、その方が真理である方だと、確認したことになる」と記す。主イエスは同14章6節で「真理」を自称され黙示録3章14節は主イエスを「アーメンである方」と呼ぶが、ヘブライ語で「アーメン」「真理」は共に「信じる」に由来している。
(注)別エントリー「試論:『真理を行う者』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
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【追記】
ヨハネ3章33節は主イエスを「真実(=真理である方)」と呼び、黙示録3章14節は主イエスを「アーメンである方」「誠実」「真実」等と呼ぶ。黙示録では19章11節の「白馬の騎手」が「誠実」「真実」と呼ばれ、同章13節は「神の御言葉」16節は「王の王、主の主」と、「白馬の騎手」を呼ぶ。
「真理(ギリシア語本文でアレテイア)とは何か」(ヨハネ18章38節)の答えをマルコ12章32節は「神は唯一で他に神はない」ことがアレテイアとし、主はこれを「適切な答え」とされた(34節)。ヨハネ14章6節「わたしこそが道、真理、命」10章30節「わたしと父とは唯一のものである」。
(注)別エントリー「試論:『御父と御子』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ14章6節の『道』を140文字以内で」も参照のこと。
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プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)では、ヨハネ14章6節で「真理(まこと)」と平仮名を振る。詩編145編18節「主は、まことをもって呼び求める人々すべての近くにおられる」に対応するためだが、詩編のこの節の「まこと」とは、《真心(まごころ)》を意味している。
(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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エレミヤ10章10節は「主は真理の神」と記すがこの章では、自分では言葉を話せない偶像の神々と違い、イスラエルの神である主は御自ら、御言葉を発せられて真正な御教えを御自分の民にお話しになられる(申命記5章22節以下)という事柄を要約する表現として、「真理〔の神〕」が用いられている。
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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エレミヤ10章10節は「主は真理の神、命の神、永遠を支配する王」と呼ぶ。ヨハネ福音書で主イエスが御自身に関連して「真理」「命」「永遠の命」等の表現を頻用されること自体、御自身の神性の表明である。イエスに敵意を抱く人々からすると神に対する冒瀆であり、石打ちの刑に相当する事柄だった。
イスラエルの神である主は御自分の民に対して御自ら御言葉を発せられて御教えをお話しになり(申命記5章22節以下)、それこそが自分で言葉を話せない偶像の神と最も異なるとして、主をエレミヤ10章10節は「真理の神」と呼ぶ。主イエスはピラトに御自分が何者か「真理」の表現で端的に示された。