ルカ18章14節で主は、義とされたのはファリサイ派の人ではなく徴税人の方だと仰せになったが、徴税人はファリサイ派の人と違い、他人を裁くことや他人を罪人と決めつけることを一切せずに自分の非を認め、ただ神の憐れみを切望したからである。主は他人を引き合いに出しての弁明を好まれていない。
(注)別エントリー「ファリサイ派の人と徴税人」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5182
(注)別エントリー「試論:マタイ5章3節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6105