試論:「聖ヨセフの存在自体こそ奇跡」を140文字以内で

マタイ1章19節は主の養父ヨセフをディカイオスと表現した。それは同25章37節では最後の審判で救いにあずかる「主に従う人」を意味する。カトリック教会が説く「聖家族」の概念は事実上、「ヨセフはイエスとマリアに対し、いついかなる時も善意で接しようと努めた」という事柄と表裏一体である。

(注)別エントリー「試論;『心の中で憎む』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6509

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1613