試論:「最後の審判と家族分断」を140文字以内で

主はマタイ10章37節で、自分より両親や息子や娘を愛する者は自分にふさわしくないと、仰せになった。ここで主は、別に両親や子供たちを粗末に扱うことを勧められたわけではない。ただ主は直前に、剣をもたらすために自分は来た(34節)と仰せになった。剣は分断(25章32節)を象徴している。

(注)別エントリー「試論:『御言葉は剣(つるぎ)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6245

(注)別エントリー「試論:『主の祈り』と最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7047

(注)別エントリー「試論:洗礼者ヨハネと最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7075

【追記】

もちろん誰一人として、最後の審判で家族が分断されることなど望んでいるはずもない。既に旧約聖書の申命記において、家族で主の御言葉を学ぶことが強く推奨されている(6章6節〜9節)。それは主のおぼしめしに合致することであるのと同時に、家族全員を最終的な幸福(永遠の命)へ導くからである。

(注)別エントリー「試論:『教えが授けられた理由』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7039

(注)別エントリー「試論:子供に教える行為の重要性を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6931