試論:「目で見る」「耳で聞く」を140文字以内で

マタイ13章で主はたとえで話す理由を御説明されたが、「目で見る」「耳で聞く」という表現も「御教え(御言葉)を悟る」「心で理解する」ことの比喩で、それは「悔い改め」に導く。忠実な弟子に主は特別な「耳」(理解力)を与えるとイザヤ50章4節は預言し、理解力と悔い改めとは表裏一体である。

(注)別エントリー「試論:聞くだけの人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5294

(注)別エントリー「試論:聞いても実行しない人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7347

【追記】

新約聖書には、「耳のある者は聞け」という表現が随所に登場するが(マタイ11章15節、黙示録13章9節等)、この場合の「耳」とはイザヤ50章にある通り、主が忠実な弟子に賜る特別な恵み「理解力」の比喩である(4節〜5節、「主なる神は弟子となったわたしを呼び覚まされて耳を開かれた」)。