試論:「主の御言葉の権威」を140文字以内で

マルコ1章22節「人々はイエスの教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者として仰せになったからである」同27節「これは一体どういうことだ。権威ある新しい教えだ」エレミヤ23章29節「わたしの言葉は火に似ていないか、岩を打ち砕く槌のようではないかと主は仰せになる」。

【追記】

主イエスはルカ12章49節で神の御言葉を「火」にたとえられた(エレミヤ5章14節参照)。御言葉に繰り返し接することで人の心は火が金属を精錬する如く清くなり純度を高める(ゼカリヤ13章9節参照)が、この比喩は、申命記5章22節以下の故事からも古代のイスラエルの人々になじみ深かった。

(注)別エントリー「試論:『メシアとともに来る火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8314

(注)別エントリー「試論:『聖霊と火』の『火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5770

主イエスはルカ12章49節で「わたしが来たのは地上に火を投ずるため」と仰せになられ、万軍の主の預言としてエレミヤ9章6節は「わたしは娘なるわが民を、火をもって熔かし、試す」と記すが、エレミヤ書では「主の御言葉」が随所(5章14節、20章9節、23章29節)で「火」にたとえられる。

(注)別エントリー「試論:マルコ9章49節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5837

(注)別エントリー「試論:『舌は火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7995