「ヨセフに学ぶ」と聞いても大抵の人は「福音書にヨセフの情報は多くない」と片付ける。しかしマタイ1章19節がヨセフを義人と呼び、6章33節で主が神の義を求めよと仰せになり、25章が最後の審判で永遠の命を確約された人を義人と呼ぶ以上、全信者にとってヨセフを考察することは有意義である。
(注)別エントリー「試論:正しい人ヨセフを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8870
(注)別エントリー「試論:聖母と聖ヨセフの終生童貞を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6397
(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464
(注)別エントリー「試論:聖母と聖ヨセフの人柄を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8693
【追記】
人類がいかに文明の進歩を誇り、幼子や女性の権利の法的整備を誇ったとしても、実際には幼子や女性を対象とした虐待事件は後を絶たない。神は、「義人」(マタイ1章19節、25章37節)ヨセフの姿を通して、「神の義」(6章33節)とは幼子や女性を尊重し自分を後回しにすることだと教えられた。
(注)別エントリー「試論:『互いに相手を尊重する』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8923