試論:「御言葉を守る」を140文字以内で

ヨハネ12章26節、14章15節〜17節、23節「わたしのために何か行動を起こそうと思い立った人は、まず何よりわたしの掟と言葉を守りなさい。そうすればわたしの父はその人のことを愛され、弁護者である真理の霊を遣わされる。また御父とわたしはその人のところに行き、その人と一緒に住む」。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

一ヨハネ5章は20節で「神の御子が来られ、私たちに真理である方を知る力を与えられました。私たちは真理である方の内に、またその御子イエス・キリストの内にいるのです」と記し、「この方こそ真理である神、永遠の命」と続け、御父と御子と聖霊(6節)の御三方を「真理」と呼び、唯一の神とする。

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり主が直接人々にお話しになった御言葉を記したものが福音書である。福音書を顧みず他のものばかりに目を奪われ続けるならばイエス・キリストがわからなくなる。

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
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日本語でも「人としての道から外れる」などと表現するように、主イエスが「わたしは道」と仰せになる際の「道」とは、誰もがそこを通って進んで行くべき人間としての道筋、つまり御父である神の御前における、人間としてのあるべき姿(人間としてのあり方や生き方の規範・模範)という意味合いである。

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』を140文字以内で」も参照のこと。
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キリスト教の信仰に関して使徒言行録は、度々これを「道」と表現し(9章2節、18章25節、同26節、19章9節、同23節、22章4節、24章14節、同22節)、ヨハネ14章6節で主イエス御自身も御自分を「道」と表現され、御自分を通らなければ天の御父のもとには行けないと仰せになった。