試論:「火をもって熔かし試す」を140文字以内で

主イエスはルカ12章49節で「わたしが来たのは地上に火を投ずるため」と仰せになられ、万軍の主の預言としてエレミヤ9章6節は「わたしは娘なるわが民を、火をもって熔かし、試す」と記すが、エレミヤ書では「主の御言葉」が随所(5章14節、20章9節、23章29節)で「火」にたとえられる。

(注)別エントリー「試論:『メシアとともに来る火』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『聖霊と火』の『火』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

主イエスはルカ12章49節で神の御言葉を「火」にたとえられた(エレミヤ5章14節参照)。御言葉に繰り返し接することで人の心は火が金属を精錬する如く清くなり純度を高める(ゼカリヤ13章9節参照)が、この比喩は、申命記5章22節以下の故事からも古代のイスラエルの人々になじみ深かった。

(注)別エントリー「試論:マルコ9章49節を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『舌は火』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヘブライ12章29節は「わたしたちの神は、焼き尽くす火」と記す。エレミヤ5章14節は「主の御言葉」を《民を焼き尽くす火》にたとえ、《天使や預言者を介さず自ら人々に神の御言葉をお話しになるために人となられた神の御独り子、主イエス・キリスト》を、ヨハネ1章1節は「神の御言葉」と呼ぶ。

古代のイスラエル人にとって、「火」が「主の御言葉」(エレミヤ5章14節等)や《人間に直に語り掛けられる神》を象徴するものであるのは周知の事柄だった。なぜなら、「燃える柴」の火の中から「わたしはある」という神がモーセに語り掛けられた、まさにそのことが彼らの信仰の原点だからであった。

たとえ自国の古典文学であっても本文の現代語訳だけで注釈が全くなければ、正しい理解に至るのは難しい。「火」は「主の御言葉」(エレミヤ5章14節等)の喩えであると教わらぬまま「地上に火を投ずる」「聖霊と火による洗礼」等々聞かされても、新約聖書の記述を正確に把握するのは至難の業である。

(注)別エントリー「試論:マタイ3章の二つの『火』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ13章34節以下には「これら全てをイエスは、たとえを用いて群衆に仰せになり、たとえを用いずには何事も語られなかった。それは預言者による啓示が実現するためであった。『わたしは口を開き、たとえを用いて天地創造の時から隠されていたことを告げる』(詩編78編2節)」と記されている。

(注)別エントリー「試論:『火も剣も御言葉の比喩』を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ12章49節「地上に火を投ずる」「その火が既に燃えていたら」の「火」とは、エレミヤ5章14節「わたしはわたしの言葉をあなたの口に授ける。それは火となり、この民を薪とし、それを焼き尽くす」にある通り、主の御言葉(御教え)を指す。同20章9節や同23章29節も同じ比喩を使用する。

エレミヤ書では、20章9節で主の御言葉が「火」にたとえられ、5章14節や23章29節でも同様である。洗礼者ヨハネも同じ比喩で「聖霊と火による洗礼」(マタイ3章、ルカ3章)と表現し、御復活後の主イエスと数時間語り続けた二人の弟子たちは、ルカ24章32節で「心は燃えていた」と語った。