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試論:ヘブライ9章の「終わり」を140文字以内で

ヘブライ9章26節において主イエス・キリストの御受難が語られるが、その時期を新共同訳聖書は「世の終わり」と表現する。この場合の「終わり」とは、ヘブライ人にとっての旧約(=モーセの律法)の時代の終わりの時期すなわち末期を意味し、終わりの時そのもの(紀元七〇年の滅亡)のことではない。

(注)別エントリー「試論:写し(模型)を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

ヘブライ4章14節は主イエスを「もろもろの天を通過され」と記すが詩編78編69節の通り、ヘブライ人は聖所を天にたとえた。天地創造以前から「御言葉」はおられ、メルキゼデクの聖所にもシケムにもシロにもエルサレムにも、それらが天の「写し」(ヘブライ9章24節)に過ぎないにせよおられた。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヘブライ13章13節はエルサレムを「宿営」と呼び退去を勧める。「年を経て古びたものは間もなく消え失せます」(同8章13節)の通り都と神殿が滅亡して旧約時代が終焉するからだが、既にマタイ5賞18節で主イエスは神殿の聖所を「天地」と呼ばれ(詩編78編69節参照)それを予告されていた。

(注)別エントリー「『ヘブライ人への手紙』が書かれた理由」も参照のこと。
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古代のヘブライ人は詩編78編69節の通り、エルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。これを踏まえれば、主イエスのルカ21章33節の仰せ「やがて天地は滅びるであろうが、わたしの言葉は決して滅びない」の意味は、「エルサレムと神殿の滅亡後も、わたしの教えと信仰は生き続ける」である。

(注)別エントリー「試論:黙示録の『第八の者』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ5章18節で、全てのことが実現して天地が消え失せるまではモーセの律法も消え失せないと仰せになり、ルカ21章22節ではエルサレム滅亡で預言が全て実現すると予告され、紀元七〇年にそれは成就した。詩編78編69節の通りヘブライ人はエルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。

(注)別エントリー「試論:ルカ19章41節を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
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ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代が続くことを仰せになった。ルカ21章22節では、エルサレム滅亡(20節)の日を「書かれていることが完全に実現する報復の日」と仰せになり、エルサレムと神殿の滅亡(紀元七〇年)で律法の時代が終わると宣言なさった。

「天地が消え去る」の「天」とは、神がお住まいになる場所と見なされたエルサレム神殿とりわけその聖所を指し、二ペトロ3章はその滅亡が近いことを説く。「地」はエゼキエル7章2節同様、イスラエルの地を指す。紀元七〇年にエルサレムと神殿は滅亡しユダヤ(イスラエル人の国家)も同じく消滅した。

二ペトロ3章10節は「主の日」において「天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔解し尽くす」と予告した。数年後の紀元七〇年、神が住まわれると見なされて、「天」と同一視されていたエルサレムの神殿は、都の滅亡の際ローマ帝国軍によって火を放たれ、大音響と共に焼け滅びた。

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は、不毛である。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
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ダニエル書9章では神殿とエルサレムの復興を強く願うダニエルの祈りに応えて、都と神殿の再建さらには救い主の到来までも約束されたが、救い主が不当に殺された後、モーセの律法を蹂躙する集団が神殿の聖所を占拠し、そして次に来る指導者の民が、都と神殿を無法集団もろとも、滅ぼし尽くして終わる。

(注)別エントリー「ダニエル書9章の『七十週』預言」も参照のこと。
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ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。

紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子とともに奴隷とされて売り飛ばされた。こうして、「一人は連れて行かれ、一人は残される」は現実となった。

(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ21章32節で主は「全てのことが起こるまではこの時代は決して滅びない」と仰せになったが、「時代」に当たる原文の単語ゲネアは古代のギリシア語詩編94(95)編10節の「世代」にも用いられ、詩編のこの節ではゲネアを四十年とする。実際この主の仰せからおおよそ四十年後に都は滅亡した。

(注)別エントリー「試論;『今の時代』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論;『人心荒廃は滅亡の前兆』を140文字以内で」も参照のこと。
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