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試論:「報酬に区別はない」を140文字以内で

マタイ20章の「ぶどう園と労働者」のたとえでは報酬に区別はないことを教えるために便宜上「一デナリオン」という表現が用いられた。しかし13章44節以下では天の国は「畑に隠された宝」「良い(高価な)真珠」にたとえられており、その価値を知るならあらゆる努力に値するものだとも教えられる。

【追記】

主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

ルカ10章25節の律法学者と18章18節の議員は同じ質問をした。ただ議員には「心・精神・力・思いを尽くして」の観点が欠けていた。主は議員に、「持ち物を全て売り払う」という表現で勧告なさったが、この表現はマタイ13章44節〜45節のたとえでは《あらゆる努力を尽くす》を象徴している。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

マタイ19章16節で主に金持ちの青年が永遠の命を得るにはどうすればと尋ねた時、それを彼は比較的容易な事柄と考えていたが、主は同13章44節以下特に46節で、それを手に入れるためにはあらゆる努力を尽くす必要があることを、「宝」「真珠」「持ち物を全て売り払う」等の表現で御説明された。

(注)別エントリー「試論:『ラクダが針の穴を』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11192

(注)別エントリー「試論:『招かれる』『選ばれる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8012

(注)別エントリー「試論:『御言葉によって生きる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11157

マタイ7章21節で主イエス・キリストは、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな、天の国に入るのではない。天におられるわたしの父のみ旨を行う者だけが入る」と仰せになられ、23節やルカ13章27節では入れなくなる理由とは「不法を働く」「不義を行う」ことであると明言されている。

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8105

主は「わたしはまことのぶどうの木」と仰せになったが、「わたしにつながっていながら実を結ばない枝はみな父が取り除かれる」と続けられた。マタイ7章19節「良い実を結ばない木は切り倒されて火に投げ込まれる」同21節「わたしに向かって『主よ主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」。

(注)別エントリー「試論:神から受けた掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5418

(注)別エントリー「試論:神への愛を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5413

マタイ7章21節の主の仰せ「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」の「主よ」という呼び掛けは、当然、25章44節「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、〜」という箇所とは内容的に直結しており、信仰義認の適不適を判断する良い基準である。

(注)別エントリー「試論:マタイ25章の十人の乙女を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5994

マタイ5章で主は、「あなたがたは世の光」(14節)、「あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(16節)と仰せになり、行いを伴わない信仰など役に立たない(ヤコブ2章14節)ことをお話しになった。

(注)別エントリー「試論:行いを欠く信仰を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5360

(注)別エントリー「試論:『地の塩』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5586