主はヨハネ14章23節で「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところへ行き、一緒に住む」と仰せになり、神の御言葉(御教え)を守ることこそが、神と同じところにとどまることに他ならないと、主は同じ事柄を15章10節でも教えられた。
(注)別エントリー「試論:『御父と御子』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
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【試論】
一ヨハネ2章5節は「神の御言葉を守るなら確かにその人の内には神の愛が実現している。これによってわたしたちが神の内にいると分かる」と記し、3章18節以下は「言葉や口先だけではなく行いをもって誠実に愛し合うならば、それによって自分が真理に属すると分かり、神の御前で安心できる」と記す。
(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ福音書で「わたしが求めるのはあわれみであって犠牲(いけにえ)ではない」(ホセア6章6節)と繰り返されが、同節は「神を知ることであって焼き尽くす献(ささ)げ物ではない」と続く。「神を知る」を一ヨハネ2章3節は「神の掟(愛の掟。ヨハネ15章12節等)を守る」ことと説明する。
(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
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