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試論:「イエスと名付けられた」を140文字以内で

ルカ2章21節でマリアの産んだ幼子はイエスと名付けられたが、その理由をマタイ1章21節では「その子は自分の民を罪から救うから」とヨセフの夢に現れた天使が語る。エレミヤ14章8節は救い主キリストの寄留者や旅人のような日々を預言し、ルカ9章58節は「人の子には枕する所もない」と記す。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

ルカ2章11節は「あなたたちのために救い主がお生まれになった」マタイ1章21節は「この子は自分の民を罪から救う」と記す。イザヤ35節4節以下は「敵(サタン)を撃ち悪を罰する神が来られ、あなたたちを救われる」と預言し、目や耳や足や言葉の不自由な人々の回復が神の到来の徴になると続く。

マタイ1章でヨセフの夢に現れた主の天使は「マリアが産む子は民を罪から救う」と教えた。同じ事柄をペトロは使徒言行録3章26節で、「神は御自分の僕(しもべ、同13節参照)を立てられ遣わしてくださった。それは一人一人を悪から離れさせ、祝福(マタイ25章34節)に与らせるため」と説いた。

(注)別エントリー「試論:祝福された人と最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13187

マタイ1章21節は「自分の民を罪から救う」ルカ1章77節は「罪の赦しによる救い」と記し、主御自身もマタイ6章13節で「悪い者から救って下さい」と《主の祈り》を教えられ、ガラテヤ1章4節は「この悪の世からわたしたちを救い出そうとして御自身をわたしたちの罪のために献げられた」と記す。

(注)別エントリー「主の御降誕:救い主は何から人々を救うのだろうか」も参照のこと。
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ルカ19章10節「人の子は、失われたものを捜して救うために来た」マタイ9章13節「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くため」ヨハネ3章17節「神が御子を世に遣わされたのは世を裁くためではなく、御子によって世を救うため」同16節「信じる者が永遠の命を得るため」。

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

(注)別エントリー「試論:『キリスト教と十戒』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12564

ヨハネ1章29節「世の罪を取り除く神の小羊」の「取り除く」に当たるギリシア語は、一ヨハネ3章5節にも登場し、その前後では隣人愛の実践を奨励するが、同じ表現をエフェソ4章31節も用い、主に応えて信者が取り除くべき事柄を「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりを全ての悪意と共に」とする。

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
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ヨハネ8章34節「罪を犯す者は、罪の奴隷」12章31節「今、この世の支配者が追放される」ヘブライ2章14節〜15節「御自分に委ねられた者たちが人間である以上イエスも同じく人間としての全てを担われたが、死を司る悪魔を御自分の死によって滅ぼし悪魔の罪と死の支配から人々を解放された」。

主はヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」と仰せになった。パウロはヨハネと同じギリシア語を用いて何からの解放か、その答えをローマ6章と同8章で説明した。「罪から解放」(6章18節、22節)、8章2節「罪と死の法則から解放」同21節「滅びへの隷属から解放」。

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ1章14節は「神の御言葉(=主イエス)は肉(=人)となられ、わたしたちの間に宿られた(=住まわれた)」と記す。マタイ20章28節では主御自身が「仕えられるためではなく仕えるため」「多くの人の身代金(=あがない)として自分の命を献(ささ)げるために来た」と仰せになられている。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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