主の御降誕:救い主は何から人々を救うのだろうか

(以下の聖書からの引用は、基本的にはフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』(サンパウロ)によりますが、その他の聖書から引用する場合は、その都度、適宜その旨を付け加えます)

ルカ福音書2章11節には、「救い主(すくいぬし)」の誕生について語られている。

◯ルカによる福音書2章11節
「今日(きょう)、ダビデの町に、あなた方のために、救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである」

フランシスコ会訳の「メシア」という表現に該当する原文のギリシア語表現は、「クリストス(Χριστός – christos)」すなわちキリストである。
この箇所については、日本聖書協会新共同訳もフランシスコ会訳と同様に「メシア」という表現であり、一方で講談社バルバロ訳や中央出版社ラゲ訳では「キリスト」となっている。

さて、マタイ福音書1章では、聖霊によるマリアの妊娠に関連して、マリアの産む男の子は「自分の民を罪から救う」ということを、次のように記述している。

◯マタイによる福音書1章18節~21節
「イエス・キリスト誕生の次第は次のとおりである。イエスの母マリアはヨセフと婚約していたが、同居する前に、聖霊によって身籠(みごも)っていることが分かった。マリアの夫ヨセフは正しい人で、マリアのことを表ざたにすることを望まず、ひそかに離縁しようと決心した。ヨセフがこのように考えていると、主の使いが夢に現れて言った、『ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアを妻として迎え入れなさい。彼女の胎内に宿されているものは、聖霊によるのである。彼女は男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。その子は自分の民を罪から救うからである』」

「救い主」である主イエス・キリストは、「罪」から人々を救われるということになる。

ルカ福音書1章77節には、「罪の赦(ゆる)しによる救い」という表現がある。

洗礼者ヨハネは主イエス・キリストを次のような表現で呼んでいた。

◯ヨハネによる福音書1章29節
「その翌日、ヨハネはイエスが自分の方に来られるのを見て、こう言った、『見るがよい。世の罪を取り除く神の小羊だ』」

「神の小羊」の前に、「世の罪を取り除く」とある。

次の箇所では、主イエス・キリストが成し遂げた事柄として、「罪の清め」を挙げている。

◯ヘブライ人への手紙1章3節
「御子は神の栄光の輝き、神の本性の完全な具現であり、その力ある言葉をもって万物を支え、罪の清めを成し遂げた後、いと高き所において、威光ある方の右の座におつきになりました」

この節では、「御子」である主イエス・キリストについて、「神の本性の完全な具現」という表現を用い、その神性を明確に宣言している。

さらにマタイ福音書6章には、「山上の説教」における、主イエス・キリストの次のような御言葉を記録している。

◯マタイによる福音書6章9節~15節
「だから、あなた方はこう祈りなさい、『天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。み旨が天に行われるとおり、地にも行われますように。今日の糧(かて)を今日お与えください。わたしたちの負い目をお赦しください。同じようにわたしたちに負い目のある人をわたしたちも赦します。わたしたちを誘惑に陥(おちい)らないよう導き、悪からお救いください』。人の過ちを赦すなら、あなた方の天の父もあなた方を赦してくださる。しかし、あなた方が人を赦さないなら、あなた方の父も、あなた方の過ちを赦してくださらない」

「悪」から救ってくださるよう御父である神に祈ることを、御子である主イエス・キリストは人々に説教されたのである。

そしてヨハネ福音書12章において主イエス・キリストは、御自分が到来された意義について、次のように語られている。

◯ヨハネによる福音書12章44節~50節
「イエスは叫んで仰せになった、『わたしを信じる人は、わたしを信じるのではなく、わたしをお遣わしになった方を信じるのである。また、わたしを見る人は、わたしをお遣わしになった方を見るのである。わたしは光として世に来た。わたしを信じる人がみな、闇(やみ)の中に留(とど)まることのないためである。わたしの言葉を聞いて、それを守らない人がいても、わたしはその人を裁かない。わたしが来たのは、世を裁くためではなく、世を救うためである。わたしを拒み、わたしを受け入れない人には、その人を裁くものがある。わたしの語った言葉、それが、終わりの日にその人を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではない。わたしをお遣わしになった父ご自身が、わたしの言うべきこと、また語るべきことを、お命じになったからである。わたしは、父の命令が永遠の命であることを知っている。それで、わたしが語ることは、父がわたしに仰せになったことを、そのまま語っているのである」

この箇所においては、「救い主」が到来された意義とは人々を「永遠の命」に導くことであると、明言されているが、次の箇所でも同様の事柄が説明されている。

◯ヨハネによる福音書17章1節~3節
「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで仰せになった、『父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すことができるように、あなたの子に栄光をお与えください。あなたはすべての人を治める権能を、子にお与えになりました。子があなたに与えられたすべての人に、永遠の命を与えるためです。永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたを知り、またあなたがお遣わしになった、イエス・キリストを知ることです』」

ヨハネ福音書6章でも、主イエス・キリストが同じように語られている。

◯ヨハネによる福音書6章38節~40節
「わたしが天から降(くだ)ってきたのは、自分の意志を果たすためではなく、わたしをお遣わしになった方のみ旨を行うためである。わたしをお遣わしになった方のみ旨とは、わたしに与えてくださったすべてのものを、わたしが一人も失うことなく、終わりの日に、復活させることである。実に、わたしの父のみ旨とは、子を見て信じる者がみな、永遠の命を持ち、わたしが、その人を終わりの日に復活させることである」」

同じことがガラテヤの人々への手紙1章でも語られている。

◯ガラテヤの人々への手紙1章4節~5節
「イエス・キリストは、わたしたちの神であり父である方のみ旨に従い、悪のこの代からわたしたちを救い出そうとして、わたしたちの罪のために、ご自身をささげられたのです。わたしたちの父である神に代々限りなく栄光がありますように。アーメン」

コロサイの人々への手紙1章には次のように書かれている。

◯コロサイの人々への手紙1章13節~14節
「御父(おんちち)はわたしたちを闇の支配下から救い出し、その愛する御子(おんこ)が統治する国へ移し入れてくださいました。この御子に結ばれることによってわたしたちは贖(あがな)われ、罪の赦しを得ているのです」

ヨハネの第一の手紙3章には、憎しみにとらわれている人には「永遠の命は留まりません」ということが記されている。

◯ヨハネの第一の手紙3章8節~10節、12節、15節
「罪を犯す人は、悪魔に属しています。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子は、悪魔の業を滅ぼすために現れたのです。神から生まれた人はみな、罪を犯しません。神の種がその人のうちに止まっているからです。その人は、神から生まれたので、罪を犯すことができません。このことによって、神の子と悪魔の子との区別は明らかです。義を行わない人はみな、神に属していないものです。また、兄弟を愛さない者も同様です」
「カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属し、兄弟を殺しました」
「兄弟を憎む人はみな、人殺しです。あなた方も知っているように、すべて人殺しのうちには、永遠の命は留まりません」

ローマの人々への手紙6章でも、「永遠の命」について言及されている。

◯ローマの人々への手紙6章20節~23節
「あなた方は、罪の奴隷であったとき、救いの義に対しては自由の身でした。今あなたが恥じているような振る舞いから、その時、どんな実を得ましたか。そのような振る舞いの行き着く先は死なのです。しかし、今や、罪から解放され、神の奴隷となっているあなた方は、聖なるものとなるための実りを得ています。その行き着く先は永遠の命です。罪が支払う報酬は死であり、神の恵みの賜物は、わたしたちの主イエス・キリストとの一致による永遠の命なのです」

ヨハネ福音書3章では、御子である主イエス・キリストが「神の独り子」であるとして表現されている。

◯ヨハネによる福音書3章16節~18節
「実に、神は独り子をお与えになるほど、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである。神が御子(おんこ)をこの世にお遣わしになったのは、この世を裁くためではなく、御子によって、この世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じなかったからである」

次の箇所は主イエス・キリストの御言葉を記録しているが、ここでは「聖書」は、旧約聖書を意味している(次の発言がなされた時点ではまだ「新約聖書」は全く記されてはいない)。

◯ヨハネによる福音書5章39節~40節
「あなた方は聖書を調べている。その中に永遠の命があると、思い込んでいるからである。だが、その聖書は、わたしについて証しするものである。それなのに、あなた方は、命を得るために、わたしの所に来ようとはしない」

ヨハネの第一の手紙1章には、「神の子イエスの血が、わたしたちをあらゆる罪から清めてくださいます」と書かれている。

◯ヨハネの第一の手紙1章5節~7節
「わたしたちが、イエスから聞いたことで、あなた方に告げ知らせるのは、神は光で、神の中に闇(やみ)はまったくないということです。もしわたしたちが、神と交わりをもっていると言いながら、闇の中を歩むなら、わたしたちは嘘(うそ)をついているのであり、真理を行ってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、わたしたちは互いに交わりをもち、神の子イエスの血が、わたしたちをあらゆる罪から清めてくださいます」

「永遠の命」という表現は、ヨハネ福音書の他の箇所でも言及されている。

◯ヨハネによる福音書10章28節~30節
「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らはいつまでも滅びることがなく、誰(だれ)もわたしの手から、彼らを奪い去りはしない。わたしの父がわたしにくださったものは、他の何ものにも勝るものであり、誰もわたしの父の手から、奪い去ることはできない。わたしと父とは一つである」

◯ヨハネによる福音書10章37節~38節
「わたしが父の業を行っていないなら、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているなら、たとえわたしを信じなくとも、業を信じなさい。そうすれば、父がわたしのうちにおられ、わたしが父のうちにいることを、あなた方は知り、悟るであろう」

ヨハネ福音書10章38節(そして30節)において主イエス・キリストは、「父である神」と「子である神」との間には本質的な差異が全く存在しないことを、明言しておられる。

次に示すヘブライ人への手紙1章3節では、ヨハネ福音書10章28節から30節と同じ事柄を別の表現で説明している。

◯ヘブライ人への手紙1章3節【再掲】
「御子は神の栄光の輝き、神の本性の完全な具現であり、その力ある言葉をもって万物を支え、罪の清めを成し遂げた後、いと高き所において、威光ある方の右の座におつきになりました」

この節では、「御子」である主イエス・キリストについて、「神の本性の完全な具現」という表現を用い、その神性を明確に宣言している。

◯ヨハネによる福音書14章6節~11節
「イエスは仰せになった、『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない。あなた方がわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。いや、もう今から父を知っており、また、すでに父を見たのである』。フィリポがイエスに言った、『主よ、わたしたちに御父(おんちち)をお見せください。それで十分です』。イエスは仰せになった、『フィリポ、こんなに長い間、あなた方とともにいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。なぜ、『わたしたちに御父をお見せください』と言うのか。わたしが父のうちにおり、父がわたしのうちにおられることを、あなたは信じないのか。わたしがあなた方に言う言葉は、自分勝手に語っているのではない。わたしのうちにおられる父が、ご自分の業を行っておられるのである。わたしが父のうちにおり、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。それができないなら、業そのものによって信じなさい」

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297