ダビデは詩編38編5(4)節で、自分の過去の罪悪を「重荷」と呼び、以前の過失の記憶が神の御前で良心を責めると歌う。主イエスはマタイ11章28節で「重荷を負い疲れた人はわたしの許へ来なさい。休ませよう」と仰せられ、「自分は悪くない」と開き直る人以外は救いの対象である旨を宣言された。
(注)別エントリー「試論:『休ませてあげよう』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『疲れ』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
主はマタイ11章28節で「わたしの許へ来なさい。休ませてあげよう」と仰せになったが、ここで主は、御自分が詩編23編2節等で言及される「憩いをお与えになる主」に他ならないとほのめかされた。様々な事柄への執心で自縄自縛に陥っている人々の心に、主の清い御言葉は気分一新を促すからである。
詩編38編5(4)節ではダビデは「重荷」という表現で、以前に犯した過失の記憶が良心の呵責となっていると歌う。パウロはガラテヤ6章5節で「自分の重荷を負いなさい」と表現して各自が自分の良心の問題に向き合うよう勧め、同2節では「互いの重荷を担う」という表現で互いに赦し合うよう勧める。
(注)別エントリー「試論:『憐れみと赦し』を140文字以内で」も参照のこと。
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「十字架」に関しルカ9章23節は「日々」と記し日常との関連を示唆し「自分を捨て」と記して自分の諸欠点との関連を示唆する。二コリント11章28節「日々の厄介事や心配事」。「捨てるべき古い自分」は自分の諸欠点、「自分の十字架」とは自分の諸欠点に伴う日常の労苦(厄介事、心配事)である。
(注)別エントリー「試論:『自分を捨てる』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『捨てる』べきものは何?を140文字以内で」も参照のこと。
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主はルカ9章23節で「わたしについて来たい者は、日々、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」と仰せになった。コロサイ3章9節以下は「古い人をその行いとともに脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々、新たにされる」よう勧め、捨てるべき事柄を5節以下で説く。
(注)別エントリー「試論:キリスト者の日々の十字架を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『十字架が象徴するもの』を140文字以内で」も参照のこと。
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ガラテヤ5章24節や同6章14節は、「神の国と神の義」(マタイ6章33節)に相応しくない現世的な「肉の業」(ガラテヤ5章19節以下)と絶縁する決意や日々のそのための努力を、負うべき十字架にたとえた。マタイ6章12節の「負い目」とは、「肉の業」つまり人間の「過ち」(14節)を指す。
主はルカ9章23節で「わたしについて来たい者は、日々、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」と仰せになった。コロサイ3章9節以下は「古い人をその行いとともに脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々、新たにされる」よう勧め、捨てるべき事柄を5節以下で説く。