主はルカ17章1節で「つまずきは避けられないがそれをもたらす者は不幸だ」と仰せになった。レビ19章17節は悪意を抱いたまま隣人に接することを禁じ、箴言26章27節は他人を落とす穴を掘る者は自分がそこに落ちると記し、民数記12章でモーセに難癖をつけたミリアムは厳しく主に罰せられた。
(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
旧約聖書では「良からぬ意図の下に穴を掘る」行為は、結局は自分自身の破滅を準備する象徴的な仕草と見なされた(詩編57編7(6)節)。詩編94編12節は「主よ、あなたに諭されあなたの律法を教えていただく人は幸い」と記し、13節では神に逆らう者の滅びの象徴として「穴」が言及されている。
詩編55編24(23)節の「滅びの穴」という表現の通り、旧約聖書では「穴」という存在自体が「滅び」の象徴とみなされた。エゼキエル19章4節と8節で「穴」というヘブライ語は「罠」を意味し、詩編7編16(15)節や9編16(15)節では、「穴」は自分自身を陥れる可能性も秘めると歌う。
御受難前に主は、「理由のない憎しみ」(ヨハネ15章25節)に言及され、また人心荒廃が神殿の滅亡に先立つと予告された(マタイ24章10節、12節)。約四十年後に神殿は滅亡し、さらにその数十年後あるユダヤ教の高名なラビは、「理由のない憎しみ」の蔓延により神殿は滅亡したと、結論付けた。
(注)別エントリー「試論;『人心荒廃は滅亡の前兆』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
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古代のギリシア語訳民数記の12章3節ではモーセを「柔和な人」の代表例とする。自分に難癖をつけてきて神に罰せられた(レビ19章17節参照)姉ミリアムに対して、モーセは全く姉の不幸を喜ぶことなく(箴言17章5節参照)、逆に姉のために神なる主に執り成し、赦しを請い願った人だからである。
(注)別エントリー「民数記12章3節:モーセの人となり」も参照のこと。
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マタイ13章21節の通り、古代イスラエルでは「つまずき」という言葉が「神の御教えを捨ててしまい悪に誘惑され悪事を行うこと」の比喩として広く用いられた。これは当時の人々の「わたしの魂は神に付き従い、神は右の御手でわたしを支えてくださる」(詩編63編9(8)節)という信念に由来する。
主イエスは隣人愛の掟を、最も重要な掟の第二と呼ばれた。レビ19章14節と申命記27章18節は、耳や目の不自由な人や道に迷って困っている人を笑い者にするなと教える。レビ19章17節は、以前に迷惑をかけられたわけでもない相手に対し、理由のない悪意を抱いた状態で接してはならぬと教える。
(注)別エントリー「試論:『わたしは道』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
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レビ記19章には18節に有名な隣人愛の掟があるが、それに先立つ箇所には隣人愛に反する様々な行為を禁じる掟が列挙される。14節では、耳の不自由な人がいる前でその人が聴こえないのをいいことに悪口を言う行為と、目の不自由な人が歩いて行く方向に障害物を置いて邪魔をする行為とが禁じられる。
主はマタイ18章6節以下で、無垢な信仰を持つ子供をつまずかせる者は不幸であり厳罰は必至だと示唆された。詩編37編23節以下は主が御旨にかなう道を人間のために準備され、また人間の手をとらえ歩みを定めておられると記す。子供をつまずかせる(御旨から外れさせる)行為は絶対に容認されない。
マタイ18章6節で主は「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて深い海に沈められる方がましである」と仰せになり、子供のような心で神を信じている人に悪を教え込もうとする者に対して、神がとりわけ厳しい罰をもって臨まれることを、主は宣言された。