試論:「キリスト教の愛の律法」を140文字以内で

主イエスはマタイ7章12節で「あなたが他の人からしてもらいと思うことは何であっても他の人にあなたの方から行いなさい。これこそ律法と預言者〔の教え〕である」と仰せになり、御自分の御教えの核心とされた。パウロはこれを「キリストの律法」(一コリント9章21節、ガラテヤ6章2節)と呼ぶ。

【追記】

主イエスはマタイ7章12節で、「自分が他人からしてもらいたいことを、あなたたちから他人にしなさい。これこそ律法であり、預言者の教え」と御教えを要約された。エレミヤ31章33節は「わたしの律法を、彼らの心に記す」と預言する。キリストの律法は、モーセの律法に比べると、単純だが奥深い。

(注)別エントリー「試論:『キリスト教と十戒』を140文字以内で」も参照のこと。
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A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
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レビ19章18節は有名な隣人愛の掟を教えるが、その対極の行為として17節は兄弟を心の中で憎むことを禁じる。ゼカリヤ7章10節は互いに災いを心の中で企むこと、8章17節は互いに心の中で悪を企むことを禁じ、相手の困った顔・悲しむ顔・苦しむ顔を見たいという悪意を抱いてはならぬと戒める。

ローマ13章10節でパウロは「愛とは隣人に対して悪事を行わないことです」と断言している。これを踏まえるなら、隣人に対して悪事を行おうと企むことこそが愛の反対に該当する行為ということになる。同9節は「姦淫するな、殺すな、盗むな、貪るな(他人の物の横取りを企むな)」等を列挙している。

主イエスは隣人愛の掟を、最も重要な掟の第二と呼ばれた。レビ19章14節と申命記27章18節は、耳や目の不自由な人や道に迷って困っている人を笑い者にするなと教える。レビ19章17節は、以前に迷惑をかけられたわけでもない相手に対し、理由のない悪意を抱いた状態で接してはならぬと教える。

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
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レビ記19章には18節に有名な隣人愛の掟があるが、それに先立つ箇所には隣人愛に反する様々な行為を禁じる掟が列挙される。14節では、耳の不自由な人がいる前でその人が聴こえないのをいいことに悪口を言う行為と、目の不自由な人が歩いて行く方向に障害物を置いて邪魔をする行為とが禁じられる。