【問】聖書の中で、「愛」と「義(正義)」とは、対立しますか?
【答】マタイ1章19節は主の養父ヨセフを「義人」つまり「正義の人」と記します。しかし彼はレビ5章1節「もし隣人の不義に見て見ぬふりするなら、その人も不義の人」にもかかわらず婚約者の潔白を信じて、彼女を告発しませんでした。
【問】一体ヨセフはなぜ婚約者の告発を躊躇していたのですか?
【答】確かに、自分に身に覚えがないにもかかわらず、婚約者の妊娠は歴然でした。しかしヨセフにとって、婚約者の貞潔もまた歴然でした。ヨセフにとっては婚約者を告発することもまた不義でした。進退極まった彼は身を退く決意をしました。
【問】「義」とは、何か近寄り難い気がします。
【答】全く違います。サウル王はダビデに「お前はわたしよりも義の人だ。わたしはお前に悪意を示したのにお前はわたしに善意を示してくれた」(サムエル上24章18節)と言いました。古代のヘブライ人の「義」とは、善意あるいは善行を意味しています。
【問】主イエスは神の国と神の義を求めよと説かれました。創世記15章はアブラムが義とされたと記します。なぜ?
【答】同14章で諸国の王が私利私欲のために戦った時、彼だけは人助けのために行動しました。神なる主は同15章の約束で、彼が目先の私利私欲で動く人ではないと、最終確認されました。
【問】天の星の数を彼に数えさせることが、なぜ、彼の義を確認することになるのですか?
【答】もし彼の中に私利私欲のかけらが少しでもあったならば、「わたしは遠い未来の自分の子孫の数のことなんかよりも、自分自身の幸福について具体的に今、目に見えるものが欲しい」などと主張していたはずです。
【問】マタイ6章33節「神の国と神の義」や同5章20節「あなたたちの義が律法学者たちやファリサイ派の義に勝らなければ」の「義」って、何?
【答】それらの「義」という訳語はギリシア語原文ではディカイオシュネーで、この語は同6章1節「人前で善行を見せびらかさないように」の「善行」です。
【問】山上の説教の「義に飢え渇く人は幸い」の「義」とは何?
【答】サムエル上24章18節「お前はわたしよりも義の人だ。わたしはお前に悪意を示したのにお前はわたしに善意を示してくれた」からも分かる通り、古代のヘブライ人の「〔神の〕義」とは現代の日本語でいえば《善意》を意味しています。
【問】「ヨセフは義人だったので婚約者のことを大っぴらにはせずひそかに離縁しようとした」の意味は?
【答】古代のヘブライ人の「義」は《善意》を指し、彼は「善意の人」であり「お前は俺のメンツを潰したのだから、お前もお前の子も地獄に堕ちろ」などと喚いて大騒ぎしたりは決してしませんでした。
(注)別エントリー「婚約者の妊娠を知った時のヨセフの心情」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3092
マタイ福音書のギリシア語本文はヨセフをディカイオス(1章19節)と呼ぶが、ディカイオスは最後の審判で天国の福楽を確約されている人(25章37節)を意味し、ヨセフがもともと天の国にいてもおかしくないほどに無垢な(創世記6章9節)底抜けの大善人で天使のような人であったことを示唆する。
(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7243
(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464
【問】聖書の中の「愛」も聖書の中の「義」も、ともに「善意」や「善行」という点では一致しているということですか?
【答】少なくともマタイ福音書におけるディカイオス/ディカイオシュネーの用法を調べる限り、聖書の中で、「愛」と「義」の間に、矛盾や対立や齟齬の類いは存在していないようです。
【問】世間では、既婚者や恋人のいる異性を奪い取る行為を「略奪愛」と呼んだりします。これはキリスト教の愛に含まれますか?
【答】いいえ。全く含まれません。キリスト教の愛の定義は「他の人からしてもらいたいことなら全てあなたから他の人にしなさい」で、これと「略奪愛」は絶対に相容れません。
(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199
【問】マタイ7章13節の「狭い門」って、何?
【答】「門」とは天の国に入るための「義の門」(詩編118編19節)のことで、入るためには《キリストの律法》を日々実践しなければなりませんが、なぜか信者を自称する人々ですら、この「門」に関心を持つ者は多くなく、ゆえに「狭い」と呼ばれます。
(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665
【問】マタイ12章19節(イザヤ42章2節)「彼(=「主の僕」御子イエス)の声を聞く者は大通りにはいない」の意味は?
【答】マタイ7章13節〜14節「滅びに通じる門は広くその道も広々としているが、命に通じる門(詩編118編19節、イザヤ26章2節)はなんと狭くその道も細いことか」。
A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。
B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。
C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。
D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。
「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。
レビ19章18節は有名な隣人愛の掟を教えるが、その対極の行為として17節は兄弟を心の中で憎むことを禁じる。ゼカリヤ7章10節は互いに災いを心の中で企むこと、8章17節は互いに心の中で悪を企むことを禁じ、相手の困った顔・悲しむ顔・苦しむ顔を見たいという悪意を抱いてはならぬと戒める。